滝川法直
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時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 慶長19年9月13日(1614年10月16日) |
別名 | 通称:左兵衛 |
幕府 | 江戸幕府 越後国高田城普請奉行 |
主君 | 徳川秀忠 |
氏族 | 滝川氏 |
父母 | 父:滝川忠征、母:南部下総守の娘 |
兄弟 | 伊木常糺室、浅野忠正室、那須長兵衛室、生駒蔵人室、法直、千松、古保、松井喜多郎室、松山内匠室、津田知信室、時成、忠尚、小坊、女子 |
妻 | 伊東祐兵の娘 |
子 | 滝川直政室、伊東祐久室 |
滝川 法直(たきがわ のりなお)は、江戸時代前期の旗本嫡子。
生涯
旗本滝川忠征の長男。生年は不明だが、年齢の離れた同母弟に慶長7年(1602年)生まれの滝川時成がいる[3]。
慶長12年(1607年)4月、日向国飫肥藩主伊東祐兵の娘と大坂で婚礼を挙げた[4]。
慶長19年(1614年)3月、徳川家康の六男松平忠輝の居城高田城の普請奉行を伊東政世、山城忠久とともに務め、同年7月に竣工した[5][注釈 1]。
同年9月に家督を相続することなく死去した[3]。
法直には男子がなく、死去時に存命の弟はすでに徳川義直に近習として召し出されて尾張藩士となっている時成だけであったので、父の忠征は外孫(浅野忠正と法直の姉の間の三男)直政を法直の娘婿に迎えて養孫とし、滝川家の家禄を相続させている[1][3]。
法直の遺品に伝明兆筆(如拙筆とも)の「琴棋図屏風」(重要文化財)があり、法直が生前に大徳寺龍光院の江月宗玩に帰依していたことから死後に父の忠征によって龍光院に寄進された[7]。
系譜
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻649
脚注
注釈
- ^ 高田城の普請奉行は滝川左兵衛、伊東右馬允(政世)、山城宮内(忠久)の3名とされるが、江戸幕府の記録に見えず、普請に貢献した忠輝の岳父伊達政宗の年譜『伊達政宗記録事蹟考記』に引用される仙台藩の史料『真山記』による。明治42年(1909年)に本史料を紹介した『大日本史料』は滝川左兵衛が法直の父で江戸城や名古屋城の普請でも奉行を務めた滝川忠征である可能性を指摘して「忠征カ」と注記するが[5]、『寛政重修諸家譜』には忠征の通称として左兵衛は見えず、また慶長2年(1597年) に叙爵して豊前守を称している[1]。大正3年(1914年)発行の『高田市史』等の地方史では滝川左兵衛を忠征とする[6]。
- ^ 伊勢国富田城主南部氏の一族[8]。
出典
- ^ a b c 『寛政重脩諸家譜. 第4輯』國民圖書, 1923, p. 447.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書. 続編 第17巻 士林泝洄 第1』, 名古屋市教育委員会, 1966年, p. 121.
- ^ a b c 『諸家系譜』滝川・滝・滝野・滝村・立花.
- ^ 『日向記』巻13(国書刊行会編『史籍雑纂』苐1, 国書刊行会, 1911年, p.542.)
- ^ a b 東京帝国大学文科大学史料編纂掛編『大日本史料』第12編之13, 東京帝国大学, 1909年, p. 810.
- ^ 高田市教育会編『高田市史 : 附・上越発展策』新潟県高田市教育会, 1914年, p. 16.
- ^ MIHO MUSEUMの投稿(2337634706299009) - Facebook
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書. 続編 第20巻 士林泝洄 第4』, 名古屋市教育委員会, 1968年, p. 593.
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