滝川時成とは? わかりやすく解説

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滝川時成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/14 13:47 UTC 版)

 
滝川 時成
時代 江戸時代前期
生誕 慶長7年(1602年
死没 延宝7年6月15日1679年7月22日
別名 通称:長十郎、長門、豊前
戒名 半斎了徹居士
墓所 大林寺(愛知県名古屋市千種区城山町
主君 徳川義直
尾張藩
氏族 滝川氏
父母 父:滝川忠征、母:南部下総守の娘
兄弟 法直時成、忠尚、伊木有斎室、松井藤助室、杉山内匠室、浅野忠正室、津田知信室、生駒九郎左衛門室、那須左近室
阿部正與の娘
之成、是成
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滝川 時成(たきがわ ときなり)は、江戸時代前期の尾張藩士。

通称は長十郎[1]、長門、豊前[2]

生涯

慶長7年(1602年)、徳川家康使番として仕える滝川忠征の次男[注釈 1]として生まれた。

慶長15年(1610年)、前年からの名古屋城築城において父忠征が普請奉行として功労があったことを賞し、当時は父の家康と駿府城で同居していた名古屋城主(尾張藩主)徳川義直近習小姓)として召し出され、所領1000石を与えられて尾張藩士となる[3]

慶長19年(1614年)、20年(1615年)の大坂の陣では義直に供奉して出陣した[4]

元和2年(1616年)、忠征が家康の遺命により義直に附属され、尾張藩内で時成と別に6000石を与えられた[1][2]。以後、父の忠征は年寄(家老)、子の時成は藩主義直の側近に仕え、元和5年(1620年)、義直が近習の石黒市十郎を自ら脇差で刺殺して手討した際に、時成が太刀持ちとして義直に陪従していたことが記録に見える[5]

寛永9年(1632年)、忠征の隠居に伴ってその所領6000石の相続を許された。このとき、時成がそれまで領していた1000石は父に隠居料として与えられた。父が死去した寛永12年(1635年)に病を理由として34歳の若さで隠居を願い出て、嫡男之成に家督を譲った[2]

隠居後は半斎と称し、伊勢湾に面した領地の知多郡馬走瀬(現在の愛知県東海市横須賀町)に隠居屋敷を構えて居住していたが、寛文6年(1666年)、藩主光友の潮湯治滞在所として替地を命じられ[6]、同郡木田(現在の東海市大田町)に移った[7]

延宝7年(1679年)死去、享年78[4][注釈 2]

系譜

  • 父:滝川忠征(1559 - 1635)
  • 母:南部下総守[注釈 3]の娘
    • 同母兄:滝川法直(? - 1614) – 子孫は江戸幕府旗本
    • 異母弟:滝川忠尚(生没年不明) – 子孫は尾張藩士
  • 正室:阿部正與(尾張藩年寄)の娘[注釈 4]
    • 長男:滝川之成(1625 - 1696)
    • 次男:滝川是成(1627 - 1686) – 病身のため出仕せず。子の忠家と恒忠は御目見以上では最下級の藩士である同心として召し出された[2]

参考文献

脚注

注釈

  1. ^ 長兄法直との間に早逝した兄2人を挟んでおり、正確には四男[1]
  2. ^ 名古屋の地誌『金鱗九十九之塵』記載の滝川氏系図では延宝5年(1677年)死去、享年76[8]。逆算した生年はいずれも同じ。
  3. ^ 伊勢国富田城南部氏の一族[9]
  4. ^ 幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』は正與の次女を旗本滝川長門守利貞の妻とする[10]が、尾張藩で編纂された『士林泝洄』では「滝川豊前妻」(ただしこちらでは三女)とされている[11]

出典




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