滝川時成
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時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長7年(1602年) |
死没 | 延宝7年6月15日(1679年7月22日) |
別名 | 通称:長十郎、長門、豊前 |
戒名 | 半斎了徹居士 |
墓所 | 大林寺(愛知県名古屋市千種区城山町) |
主君 | 徳川義直 |
藩 | 尾張藩 |
氏族 | 滝川氏 |
父母 | 父:滝川忠征、母:南部下総守の娘 |
兄弟 | 法直、時成、忠尚、伊木有斎室、松井藤助室、杉山内匠室、浅野忠正室、津田知信室、生駒九郎左衛門室、那須左近室 |
妻 | 阿部正與の娘 |
子 | 之成、是成 |
滝川 時成(たきがわ ときなり)は、江戸時代前期の尾張藩士。
生涯
慶長7年(1602年)、徳川家康に使番として仕える滝川忠征の次男[注釈 1]として生まれた。
慶長15年(1610年)、前年からの名古屋城築城において父忠征が普請奉行として功労があったことを賞し、当時は父の家康と駿府城で同居していた名古屋城主(尾張藩主)徳川義直に近習(小姓)として召し出され、所領1000石を与えられて尾張藩士となる[3]。
慶長19年(1614年)、20年(1615年)の大坂の陣では義直に供奉して出陣した[4]。
元和2年(1616年)、忠征が家康の遺命により義直に附属され、尾張藩内で時成と別に6000石を与えられた[1][2]。以後、父の忠征は年寄(家老)、子の時成は藩主義直の側近に仕え、元和5年(1620年)、義直が近習の石黒市十郎を自ら脇差で刺殺して手討した際に、時成が太刀持ちとして義直に陪従していたことが記録に見える[5]。
寛永9年(1632年)、忠征の隠居に伴ってその所領6000石の相続を許された。このとき、時成がそれまで領していた1000石は父に隠居料として与えられた。父が死去した寛永12年(1635年)に病を理由として34歳の若さで隠居を願い出て、嫡男之成に家督を譲った[2]。
隠居後は半斎と称し、伊勢湾に面した領地の知多郡馬走瀬(現在の愛知県東海市横須賀町)に隠居屋敷を構えて居住していたが、寛文6年(1666年)、藩主光友の潮湯治滞在所として替地を命じられ[6]、同郡木田(現在の東海市大田町)に移った[7]。
系譜
- 父:滝川忠征(1559 - 1635)
- 母:南部下総守[注釈 3]の娘
- 同母兄:滝川法直(? - 1614) – 子孫は江戸幕府旗本
- 異母弟:滝川忠尚(生没年不明) – 子孫は尾張藩士
- 正室:阿部正與(尾張藩年寄)の娘[注釈 4]
参考文献
- 『士林泝洄』巻5
脚注
注釈
出典
- ^ a b c 『寛政重脩諸家譜. 第4輯』國民圖書, 1923, p. 448.
- ^ a b c d 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書. 続編 第17巻 士林泝洄 第1』, 名古屋市教育委員会, 1966年, p. 121.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第4巻 記録編 第1』, 名古屋市教育委員会, 1962年, p. 186.
- ^ a b 『諸家系譜』滝川・滝・滝野・滝村・立花.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第4巻 記録編 第1』, 名古屋市教育委員会, 1962年, p. 209.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第4巻 記録編 第1』, 名古屋市教育委員会, 1962年, p. 266.
- ^ 横須賀町史編集委員会編『横須賀町史』, 横須賀町, 1969年, p. 76.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第6巻 地理編 第1』, 名古屋市教育委員会, 1959年, p. 224.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書. 続編 第20巻 士林泝洄 第4』, 名古屋市教育委員会, 1968年, p. 593.
- ^ 『寛政重脩諸家譜. 第4輯』國民圖書, 1923, p. 349.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書. 続編 第18巻 士林泝洄 第2』, 名古屋市教育委員会, 1967年, p. 3.
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