池田恒利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/26 11:44 UTC 版)
|
|
---|---|
![]()
池田恒利像(林原美術館蔵)
|
|
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 永正6年(1509年)[1] |
死没 | 天文7年3月29日[2](1538年4月28日) |
改名 | 恒利→宗傅(法名) |
戒名 | 養源院殿心光宗傅大居士[3] |
墓所 | 龍徳寺(岐阜県揖斐郡池田町) |
官位 | 紀伊守 |
主君 | 足利義晴→織田信秀 |
氏族 | 滝川氏?→池田氏 |
父母 | 父:滝川貞勝? 養父:池田政秀? |
妻 | 正室:養徳院(池田政秀の娘) |
子 | 恒興 |
特記 事項 |
滝川範勝と同一人物説あり。 |
池田 恒利(いけだ つねとし)は、戦国時代の武将。幼少期の織田信長を養育した養徳院の夫で、信長の乳兄弟池田恒興の父[2]。
生涯
『寛永諸家系図伝』によれば源頼光の子孫である摂津池田氏の一員として摂津国に生まれ、初め足利義晴に仕えたが、致仕して剃髪し宗傅(そうでん)と名乗り、尾張国に閑居した。そこで近江国の池田氏の娘(養徳院)と結婚したという[4]。『寛政重修諸家譜』も養徳院と結婚するまでの経歴は同じ[2]。
鳥取藩の儒者佐善礼耕の『池水記』によると、恒利は摂津の国人池田十郎教正[注釈 1]の後裔で、足利義晴に仕えていたが、戦乱で義晴が京都を離れた際に織田信秀を頼り、尾張国永良庄に移住したという[5]。
岡山藩の史料『信輝本系伝聞記』によると、近江国甲賀郡の大原氏の同名中に滝川、櫟野、滝の三家があり、滝川八郎貞勝は櫟野家から滝川家を継いだ。貞勝には二男一女があり、長男が滝川一益の父である八郎一勝、長女が滝玄蕃允恒元の妻、次男が九郎範勝であった。範勝は恒元夫妻に子がないため養子に入って滝三四郎恒利と名乗りを改めたが、恒元に実子が生まれたため、滝家から退去した。恒利は河内・摂津を流浪したのちに足利義晴に仕え、仕えを辞して尾張に流寓した。そこに池田六郎政秀という浪人がいて、後継ぎがいなかったため政秀に婿養子になるように請われ、政秀の娘(養徳院)と結婚して池田を称したという[6]。昭和戦前期に岡山池田家で編纂された『池田恒利公小伝』も同様の説をとる[7]。
天文5年(1536年)、恒利と養徳院との間に嫡男の恒興(信輝)が生まれた[8][9]。出産後、養徳院は滝川一益と森寺秀勝[注釈 2]の推挙で天文3年(1534年)生まれの織田信秀嫡男・吉法師(信長)の乳母となった[10]。
その後の恒利の経歴は『寛永諸家系図伝』には記されておらず[4]、『寛政重修諸家譜』によれば恒興の生後間もない天文7年(1538年)に没したという[2]。享年30[1]。没年は天文17年(1548年)という異説もある[12]。
墓所は岐阜県揖斐郡池田町本郷の龍徳寺。一時所在不明だったが文政4年(1821年)に再発見されて、現在も恒興の墓および稲葉氏一族の墓に隣接して存在する[13]。位牌所は岡山国清寺、鳥取龍峰寺および京都妙心寺塔頭盛岳院(現:慈雲院)[14]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b 蔵知 1938, p. 2.
- ^ a b c d 寛政譜, p. 401.
- ^ 蔵知 1938, p. 4.
- ^ a b 『寛永諸家系図伝』 清和源氏 丁1 。(国立公文書館デジタルアーカイブ)4コマ.
- ^ 「池水記」『池田氏家譜集成』 巻24 。(国立公文書館デジタルアーカイブ)8-9コマ.
- ^ 「信輝本系伝聞記」『池田氏家譜集成』 巻28 。(国立公文書館デジタルアーカイブ)6-8コマ.
- ^ 蔵知 1938, p. 1.
- ^ 岡田 1999, p. 183.
- ^ 岡田 1999, p. 402.
- ^ a b 蔵知 1934, p. 7.
- ^ 蔵知 1938, pp. 8–9.
- ^ 阿部 & 西村 1990, p. 817.
- ^ 蔵知 1938, pp. 5–7.
- ^ 『池田氏家譜集成』 巻1 。(国立公文書館デジタルアーカイブ)4コマ.
参考文献
- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』新人物往来社、1990年。ISBN 4404017529。
- 岡田正人 編『織田信長総合事典』雄山閣、1999年。 ISBN 4639016328。
- 蔵知矩 編『池田勝入斎信輝公小伝』池田家岡山事務所、1934年 。
- 蔵知矩 編『池田恒利公小伝』池田家岡山事務所、1938年。NDLJP:1262015(
要登録)
- 『寛政重脩諸家譜』 第2輯、國民圖書、1923年 。
- 池田恒利のページへのリンク