池田恒利とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 池田恒利の意味・解説 

池田恒利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:44 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
池田 恒利
池田恒利像(林原美術館蔵)
時代 戦国時代
生誕 生年不詳
死没 天文7年3月29日[1]1538年4月28日
改名 恒利→宗傅(法名)
戒名 養源院殿心光宗傅大居士
墓所 龍徳寺
官位 紀伊
主君 足利義晴織田信秀
氏族 滝川氏池田氏
父母 父:滝川貞勝、養父:池田政秀
正室:養徳院(池田政秀娘)
恒興
テンプレートを表示

池田 恒利(いけだ つねとし)は、戦国時代武将池田恒興の父。

生涯

滝川貞勝の三男(または次男)。初め足利義晴に仕えたが、享禄年間(1528年から1531年)に辞して、尾張国に閑居したという。剃髪して宗傅(そうでん)。

池田政秀には娘(養徳院)がいたが男子がなかったため、恒利が婿養子として迎えられた[2][3]

一説によると、まず大原氏から分かれた滝川氏、櫟野氏、滝氏の三家があり、滝川一益の祖父にあたる滝川八郎貞勝は櫟野氏の出で滝川家を継いだ。一益の父である滝川八郎一勝池田恒興の父親にあたる池田恒利と兄弟で、恒利は元々滝川九郎範勝と名乗っていた。しかし滝玄蕃允恒元に子供がいないため養子となり滝三四郎恒利と名乗りを改めた。恒元の室が一勝と恒利の姉妹であったからためだが、恒元に実子ができたときに恒利は滝家から退去した。そのため享禄年間に足利義晴の元を辞して尾張に閑居した。そこに池田六郎政秀という浪人がいて、後継ぎがいなかったため政秀に婿養子になるように請われ、政秀の娘(養徳院)と結婚した。そこから池田と称したという。当時産婦に巧者の取揚婆々というそこかしこに雇われる者がおり、両家を出入りしていたためその仲立ちをしたという[4]

天文5年(1536年)、恒利と養徳院との間に嫡男の恒興(信輝)が生まれている[2][3]

宗傅は長く病床にあり、恒興が3歳の天文7年(1538年)3月29日[1]に死去したと伝わる[2]が、没年は天文17年(1548年)という異説もある[5]

墓所は岐阜県揖斐郡本郷村(現:池田町)の龍徳寺で、一時所在不明だったが文政4年(1821年)に再発見されて、現在も恒興の墓および稲葉氏一族の墓に隣接して存在する。位牌所は京都妙心寺塔頭盛岳院(現:慈雲院)。

跡は嫡男の恒興が継ぎ、養徳院はその後に織田信秀側室となった。また養徳院は滝川一益と森寺秀勝[6]の推挙で信秀の嫡男・吉法師(信長)の乳母となって養育に当たったために、池田家はやがて重用されていくことになった[7][2][3]

脚注

[脚注の使い方]

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「池田恒利」の関連用語

池田恒利のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



池田恒利のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの池田恒利 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS