滝川一乗とは? わかりやすく解説

滝川一乗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/05 05:58 UTC 版)

 
滝川 一乗
時代 江戸時代前期
生誕 慶長7年(1602年
死没 寛文5年1月14日1665年2月28日
別名 久助
戒名 紹祐
墓所 牛込松源寺
幕府 江戸幕府 西丸書院番、小姓組西丸小姓組、小姓組
主君 徳川秀忠家光家綱
氏族 滝川氏
父母 滝川一時
戸田尊次の娘
一俊、一守、一仲、一成
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滝川 一乗(たきがわ いちのり[1][2])は、江戸時代前期の旗本。通称は久助。滝川一益の孫[2]

経歴

慶長8年(1603年)、旗本滝川一時(一益の次男)が36歳で病死した際に、前年に生まれたばかりの遺児である一乗がいることが徳川秀忠の上聞に達し、遺領2000石を変わらずに領するよう命じられた。これに対して一時の家臣野村六右衛門が、一乗が15歳になるまで名代を立てて役儀を務めさせるように要請し、自身が名代になることを辞退して一乗の従兄である一積を推薦したため、米子藩中村一忠に仕えていた一積が召し出されて2000石を領し、そのうち250石を一乗とその母・祖母に分け与えた[1][2]

元和2年(1616年)、一乗は15歳になったが、一積が所領を返還しなかったため青山忠俊を通じて訴え出たところ、秀忠は「道理はもっともであるが、まだ20歳に満たず、番入りをするまでは一積が名代を続けるべきである」と裁定し、750石が加増(返還)されて1000石を領した[1][2]

元和7年(1621年)、将軍継嗣徳川家光付の書院番松平昌長組に番入りし、番士となる。このとき番頭の昌長を通じて所領のことについて訴えようとしたが、故あって遅滞しているうちに昌長が自害してしまい、果たせなかった[1]。元和9年(1623年)と寛永3年(1626年)の家光の上洛に供奉[1][2]

寛永9年(1632年)、一積が勘気を被って改易されるが、旧領は一乗に返還されなかった。翌10年(1633年)、200石を加増されて合計1200石を領する[1]。11年(1634年)の上洛、17年(1640年)の日光参詣にも供奉[2]

寛永18年(1641年)、小姓組の番士に転属し、慶安3年(1650年)西の丸に入った将軍継嗣徳川家綱付となり、家綱の将軍就任により本丸に戻った[2]

寛文5年(1665年)死去、享年64[2]

参考文献

脚注

  1. ^ a b c d e f 寛永諸家系図伝』 紀姓https://www.digital.archives.go.jp/img/4139671 (国立公文書館デジタルアーカイブ)45-49コマ。
  2. ^ a b c d e f g h 寛政重脩諸家譜』 第4輯、國民圖書、1923年、443-444頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082713/230 




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