滝川一益による関東支配
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「神流川の戦い」の記事における「滝川一益による関東支配」の解説
甲州征伐終了後の3月23日、織田信長は重臣・滝川一益に上野一国と信濃の小県郡・佐久郡を与え、織田家に従った関東諸侯をその与力とした。一益は箕輪城、次いで厩橋城を本拠とし、北毛の沼田城に滝川益重、西毛の松井田城に津田秀政、佐久郡の小諸城に道家正栄を置いた。残る武田領は、3月29日、河尻秀隆が甲斐一国(穴山領除く)と諏訪郡、森長可が信濃4郡、毛利長秀が伊奈郡を与えられ、木曾義昌が木曽谷と安曇郡、筑摩郡を安堵された。従って、北条家の領土の加増は無かった。 一益は新領地統治にあたり、関東の諸将に対して本領を安堵することを申し渡した為、近隣の諸将は人質を伴い次々と出仕した。この時、佐野氏の天徳寺宝衍と、倉賀野城主の倉賀野秀景は側近とされ、関東の佐竹義重・宇都宮国綱・里見義頼、更には奥州の伊達輝宗・蘆名盛隆と連絡をとっている。しかしながら、千葉邦胤、武田豊信は出仕を拒否し、古河公方・足利義氏とその家臣・簗田晴助には一益からの連絡自体が行われていなかった。 天正10年(1582年)5月には、一益は諸領主を厩橋城に集め能興行を開催、嫡男(一忠)、次男(一時)を伴い自ら玉蔓を舞っている。この興行には北条家も参加しており、表面的には両家の友好ムードは一層高まっていた。 滝川家中では北条家の勢力を「南方」と呼び、丁重な応対が為されていたが、その一方で一益は祇園城(下野)を元の城主である小山秀綱に返還させるなど北条側に不利な裁定を下すこともあり、織田家との同盟に家運を賭けているとはいえ、関東管領の座を従前から志向する北条家としては内心穏やかならざる状況でもあった。特に、上野が織田直轄領の観を呈し、佐竹義重を頼っていた太田資正・梶原政景親子までもが一益に伺候すると、北条家にも焦りや織田家に対する不信感が芽生えていた。
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