滝川一益の逃走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 09:24 UTC 版)
同19日、滝川一益は、倉賀野城を経て厩橋城に退却し、城下の長昌寺において戦死者の供養を行った。翌20日一益は上州衆の人質であった北条高広の次男などを解放し、そして同夜、上州衆を箕輪城に集め別れの酒宴を開いた。この時、一益が自ら鼓を打って、「武士の交り頼みある仲の酒宴かな」(羅生門)と謡うと、倉賀野秀景は「名残今はと鳴く鳥の」(源氏供養)と唄い、互いに名残惜しんだと伝わる。一益は太刀、長刀、金銀、秘蔵の懸物等を上州勢に与え、深夜に箕輪城を旅立った。 翌21日、滝川一益は松枝城にて津田秀政とその旗下・千五百騎を加えて2千強の兵とし、碓氷峠を越え、同日のうちに道家正栄が守る小諸城に着陣した。一益は、ここで佐久郡・小県郡の国衆の人質(依田康国や真田昌幸の老母など)を木曾義昌に引き渡すことにより木曽谷の通過の容認を得て、27日に小諸城を立った。この時、一益は、小諸城を依田信蕃に引き渡すよう、道家正栄に命じたという。 翌28日に滝川勢は下諏訪に着き、ここで木曾義昌の通行認可の返書を受け取り、木曽谷を通過し織田家の領国である美濃に入ると、尾張の清洲にて三法師(織田秀信)に拝礼し、7月1日に伊勢長島に帰還した。
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