滝川事件と佐伯千仭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 07:24 UTC 版)
滝川事件当時京大法学部助教授だった佐伯は、文部省による瀧川幸辰の休職処分に抗議して辞職、立命館大学法学部(教授)に転じた。 しかし、残留した法学部教官の説得に応じ、翌1934年、京大に復帰し助教授に再任されている。佐伯ら「復帰組」教官は世論の厳しい批判を受け、佐伯もまた「立命に対しては本当に申し訳ないことになってしまった」と後日述懐している。彼らの復帰は「滝川ら辞任組が復帰できる状況になった時にくさびになるような人間がいなければ困る」という「残留組」教官の言い分に抗し得なかったからだとされる。また当時この件について久野収(滝川の免官処分に反対し学問の自由と大学自治を擁護する運動を進めていた)から非難された佐伯は、「敗北して帰るのだからどんな批判も甘受する」と答えている。 その後1941年に教授に昇任した佐伯は、第二次世界大戦終結とともに黒田覚(法学部長)ら他の復帰組教官とともに滝川の復帰工作を開始し実現させた。この際、佐伯は鳥養利三郎京大総長とともに、「大学自治を滝川事件以前の状態に復帰する」旨の総長・文部省の合意文書草案を作成している。 しかし京大法学部再建のため全権を委任されて復帰した滝川を委員とする法学部の教員適格審査委員会は、戦争中の佐伯の著作の国家主義的内容を問題にして佐伯を教職不適格とした(これと前後して他の復帰組教官も京大を去っている)。これら一連の事態の背景には復帰組に対する滝川の個人的感情があったという見方もある。 なお、この不適格処分に対して、佐伯は京都大学新聞社発行の「学園新聞」1946年11月11日号に「刑法に於ける私の立場-追放の判定を駁す-」と題する反駁文を発表している。
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