武田勝頼の時代
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元亀4年(1573年)4月、信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えた。 天正2年(1574年)には父・幸綱が死去する。この時、既に真田氏の家督は長兄・真田信綱が継いでいた。しかし天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、昌幸は真田氏に復して家督を相続した。これには武田家の重臣で川中島の海津城主であった高坂昌信の支援があったとされ、勝頼も昌幸の復姓と家督相続を認めたとされる。なお、昌幸も長篠合戦には参加していたが、勝頼旗本衆として参加していたため、戦死は免れていた。なお、武藤家の家督は武藤一族の武藤常昭が継承したと考えられており、武藤領と真田領を併せて相続したわけでは無かったようで、所領に関しては一万五千貫ともいわれる真田領のみの相続であった。家督相続後、昌幸は真田領の仕置のために在国し、あるいは勝頼への甲府出仕も多かったとされ、本領と甲斐を往復する事を繰り返したようである。真田氏の本拠の展開は戸石城を中心とした一帯を掌握したことを第一の画期としており、居館を核としてはいるが、山城(詰の城)・寺院・市町などはいずれも多元的で家臣の集住はほとんど見られないことから、昌幸の支配領域では兵農未分離のまま、在地の中小領主層が戦国期以来の郷村支配を続けており、上田に移住するまで昌幸は、小県郡と西上野に独自の領域支配を展開していくことになる。 天正6年(1578年)3月、越後の上杉謙信死後に御館の乱を経て甲越同盟が成立するが、この時の上杉景勝との交渉は親族衆の武田信豊・譜代家老の小山田信茂・勝頼側近の跡部勝資らが担当しており、昌幸は蚊帳の外に置かれていた。この同盟成立により、天正7年(1579年)9月に昌幸は勝頼の命令で北条氏政の所領であった東上野の沼田領へ侵攻した。昌幸は沼田衆を調略によって切り崩し、叔父の矢沢頼綱に沼田城を攻めさせ、一方で現在の利根郡みなかみ町にある名胡桃城の鈴木重則と小川城の小川可遊斎を誘降させて両城を手に入れた。そしてこれらを拠点にして沼田城を攻撃したが、北条氏邦が援軍に駆け付けたために撤退した。天正8年(1580年)閏3月から沼田城攻撃を再開し、金子泰清や藤田信吉らを投降させて5月に沼田城を開城させた。この時、同時に利根郡みなかみ町にあった猿ヶ京城も攻め落とした。同年、武田信勝元服祝儀の名目で喜兵衛尉を改め、安房守の名乗りを許された。この時点では、勝頼から与えられた私称である。これは、北条方の上野担当である藤田(北条)氏邦が、安房守を受領名としていたことへの対抗である。 天正9年(1581年)には、勝頼の命で新たに韮崎へ築城された新府城の人夫動員を通達している。新府城築城に関しては昌幸は作事奉行であったとする説もあるが、昌幸は麾下の諸将に人夫動員を通達しているに過ぎず、作事奉行であったとする見方を慎重視する説もある。同年、元沼田城主・沼田景義が旧領奪回を図ったが、昌幸は家臣の金子泰清に命じて景義を討ち取った。 天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐が開始され本格的な武田領国への侵攻が行われた。なお江戸期編纂の文書に拠れば、このとき昌幸は武田勝頼に甲斐国を捨てて上野国吾妻地方に逃亡するように進言し岩櫃城へ迎える準備をしていたが勝頼は郡内領主・小山田信茂の居城である岩殿城を目指して落ち、その結果途中で信茂の裏切りに遭って最期を遂げることになったと言われている。このような武田家への忠誠を示す逸話が知られるが、一方で武田滅亡以前から北条氏邦、徳川家康、上杉景勝との接触を示す史料もあり、氏邦からは北条への降伏をするよう返信を受けている。 武田氏滅亡後、天正10年4月8日、昌幸は織田信長から、旧領のどの部分かは不明だが安堵をされ、織田政権に組み込まれ、織田氏の重臣・滝川一益の与力武将となった。また沼田城には滝川益重が入った。昌幸は次男の信繁を人質として滝川一益に差し出した。
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