武田勝頼の東美濃侵攻と織田氏の反撃
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「遠山氏」の記事における「武田勝頼の東美濃侵攻と織田氏の反撃」の解説
天正2年(1574年)2月、武田勝頼が東美濃に侵攻し、先ず高山城、苗木城を落とし、更に支城16箇所を全て落とした。 天正2年(1574年)東美濃は、武田勝頼の侵攻を受け、遠山十八支城と呼ばれる、苗木、神野、武節、今見、阿寺、馬籠、大井、中津川、鶴居、幸田、瀬戸崎、振田、櫛原、明知は尽く落城した。この時、明照遠山氏、安木遠山氏が滅んだ。 天正2年(1574年)2月武田勝頼の東濃侵攻で木曾義昌の兵が阿寺城にも攻め寄せた。遠山友忠父子三人は城を固守し、木曾重臣の三尾五郎右衛門、三尾将監父子を負傷させたが、次男遠山友重が討死にし阿寺城は落城した。その後、友忠と三男遠山友政は苗木城に移り、明照遠山氏は途絶えた。 天正2年(1574年)、武田勝頼の家臣山県昌景の侵攻で明知城は陥落し(明知城の戦い)、景行の次男で城主代行の遠山友治も討死にした。友治も討死にして累代が絶えたことから、家臣一同が相談して遠山利景(勘右衛門)が、飯高山満昌寺の住持から還俗して跡を継いだ。その後三河足助城主の鈴木重直の娘を妻とした。 天正3年(1575年)2月、武田勝頼が東美濃に侵攻した際に、椋実村にあった欒峰城主遠山右馬安永の菩提寺の西善寺が焼討され滅亡。 天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田氏が衰退し織田方の攻勢で利景は小里城を落とし、明知城も明知遠山氏の下に戻った。(東濃の戦い) 天正3年(1575年)、織田信忠が岩村城を落とし、東濃諸城を奪還する。 天正3年(1575年)には、織田信長は嫡男の織田信忠に岩村城を攻撃させた。これに対して武田勝頼は援軍に向かおうとし、勝頼の動きを聞いた信長も11月14日に京から岐阜へ向かった。上村合戦で武田(秋山軍)との戦いで生き残った苗木遠山氏、明知遠山氏、串原遠山氏の一族・郎党達は織田・徳川方に付いた。これより半年前から、中津川に遠山左衛門、竹折に土岐三兵、大川に小里内作、上村に遠山與介が駐留して、各方面から岩村城への補給路を断った。 そのため岩村城内は、飢餓状態となり、この窮地を脱するべく、岩村城に立て籠もっていた武田方と遠山方は11月10日に岩村城近くの水晶山の織田方の陣地に夜討ちをかけるなどして信忠軍に対抗したが、河尻秀隆・毛利秀頼・浅野左近・猿荻甚太郎等に反撃されて、武田方に付いていた遠山氏の一族・郎党の遠山五郎友長・澤中左忠太光利・飯妻新五郎・小杉勘兵衛らが討死し大将格21人に籠城兵3千人の内1千百人を失ったため武田方は戦意を喪失した。窮地に陥った秋山虎繁は、塚本小大膳を使者に立て、信長に降伏を申し出、織田方に受け入れられた。 しかし、自分の叔母のおつやの方を自らの妻にして岩村城を乗っ取った秋山虎繁と、虎繁と結婚して武田方に寝返った叔母のおつやの方を憎悪していた信長は、11月21日に城将の秋山虎繁・大島杢之助・座光寺為清が赦免の参礼に来たところを捕らえて岐阜に連行し、おつやの方も岐阜城近くの長良川の河原で逆さ磔の極刑に処した。武田方に組して岩村城に籠城していた遠山氏の一族郎党は、馬木十内・馬坂求馬・須淵傳左衛門・久保原内匠・大船五六太が討死し、遠山二郎三郎・遠山市之丞・遠山三郎四郎・遠山徳林斎・遠山三右衛門・遠山内膳・遠山藤蔵らは城中の市丞丸に入り自刃。残党は全て焼き殺された。 この結果、岩村遠山氏、飯羽間遠山氏が滅んだ。
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