武田勝頼の上野侵攻
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昌月は武田勝頼の側近となる。天正6年(1578年)3月、越後国で上杉謙信の没後に上杉景虎・景勝の間で家督を巡る御館の乱が発生し、勝頼は景虎支援のため越後へ出兵する。勝頼は景虎・景勝間の和睦を調停するが、同年8月に勝頼の撤兵中に乱が再発し、景虎は滅亡する。これにより武田・後北条氏の間で甲相同盟が破綻し、領国の接する西上野は緊張化した。 天正7年(1579年)2月、昌月はそれまで不在であった箕輪城代として赴任し、大和守を称した。同年8月、昌月は北条右衛門尉、宇津木氏久と謀り、上杉景虎方であった厩橋城、大胡城を領有する北条高広を武田方に転じさせた。その後、更に河田重親、長尾憲景、那波顕宗も武田方となっている。 勝頼は後北条氏に対抗する外交的基盤として、常陸国の佐竹氏と甲佐同盟を締結する。同年9月に勝頼は佐竹義重と共同で東上野に出兵し、 由良国繁の金山城、長尾顕長の館林城、富岡秀高の小泉城の城下を荒らし、河田備前守の膳城を落城させている。 武田・佐竹氏は甲佐同盟により後北条氏に対する攻勢を務め、北条氏政は北条氏邦宛て書状において、「由良氏と長尾氏が佐竹方として出兵した。このままでは上州は勝頼のものとなり、当方終には滅亡となる。」と嘆いている。 武田勝頼の上野支配は、跡部勝資・内藤昌月・土屋昌恒が奉行となって進められ、上毛については真田昌幸が担当した。
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