武田討伐と関東鎮定とは? わかりやすく解説

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武田討伐と関東鎮定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 04:44 UTC 版)

滝川一益」の記事における「武田討伐と関東鎮定」の解説

天正10年1582年)、信長甲州征伐企図し、嫡男織田信忠に軍を与えて信濃国攻め込ませた。この際に一益は2月12日出陣し家老河尻秀隆と共に軍監となり、森長可らと合わせて攻略戦主力となっている。一益はこの甲州征伐において武田勝頼追い詰め天目山麓で討ち取るという功績挙げている。また、甲斐国北条氏政使者信長拝謁した際、やはり一益が申次行っている。 戦後処理として、武田遺領織田家臣分割され3月23日に一益は上野一国隣接する信濃小県郡佐久郡与えられ関東御取次役」を命じられる。一益の任務は、関東八州鎮撫ばかりか甲・信など東国全域部将糾合して上杉氏らの敵対勢力対抗する役割持っていた。なお、『北条五代記』『関八州古戦録』など後代軍記物によれば一益の地位は「関東管領であったとされるが、関東管領室町幕府体制において設置され役職であり、信長足利義昭追放していることと矛盾する室町幕府関東公方役職認める事になる)。さらに、同時代史料において一益が「関東管領であったことを示すものがみられないため、これを疑問視する説もある。しかし一益は領地よりも茶器の「珠光小茄子」を所望したが叶わなかったと言い三国一太郎五郎の手紙の中で「遠国にをかせられ候条、茶の湯冥加つき候」と悔しさ述べるという、名物重み感じさせる逸話残っている。信長名馬海老鹿毛」と短刀下賜し(『信長公記』)(『関八州古戦録』)、引き続き一益を関東統治取次役にした。3月29日には、河尻秀隆甲斐一国穴山氏支配河内領除く)と諏訪郡森長可信濃川中島4郡、毛利長秀伊那郡与えられ木曾義昌木曽谷安曇郡筑摩郡安堵されている。 以後、一益は上野箕輪城次に厩橋城入り、ここで関東鎮定にあたることになる。また沼田城には滝川益重入り西毛松井田城には津田秀政佐久郡小諸城には道家正栄入った。一益は新領地統治にあたり国人衆に対して本領安堵することを申し渡した為、近隣諸将人質伴い次々と出仕した家臣・与力の項参照)。この時、天徳寺宝衍倉賀野秀景側近とされ、関東北条氏政父子佐竹義重里見義頼だけでなく、陸奥国伊達輝宗蘆名盛隆とも連絡をとっており、北条氏政下野祇園城元城主・小山秀綱返還させるなど、強大な権限持っていた様子うかがえる。また北条氏太田城追われ佐竹氏のもとに身を寄せていた太田資正梶原政景父子は、信長直参となることを望み申し入れて許され、一益のもとに伺候している。但し、千葉邦胤武田豊信出仕拒否し足利義氏とその家臣簗田晴助には一益からの連絡自体が行われていない。一益も室町幕府役職である関東公方への対応に苦慮したものと考えられる同年5月上旬、一益は諸領主厩橋城集め興行開催嫡男次男伴い自ら玉蔓舞っている。同月23日、一益の命により沼田城主の滝川益重が兵を率いて三国峠越えて越後侵攻しようとしたが、上杉景勝方の清水城主・長尾伊賀守と樺沢城主栗林政頼破れたと伝わる(『北国太平記』)。

※この「武田討伐と関東鎮定」の解説は、「滝川一益」の解説の一部です。
「武田討伐と関東鎮定」を含む「滝川一益」の記事については、「滝川一益」の概要を参照ください。

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