北ノ庄、岐阜、長島城の落城と信孝自害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 08:07 UTC 版)
「賤ヶ岳の戦い」の記事における「北ノ庄、岐阜、長島城の落城と信孝自害」の解説
勝家は北ノ庄城に逃れるも、4月23日(6月13日)には前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲され、翌日に夫人のお市の方らとともに自害した(北ノ庄城の戦い)。佐久間盛政は逃亡するものの黒田孝高の手勢に捕らえられた。のちに斬首され、首は京の六条河原でさらされた。また、柴田勝家の後ろ盾を失った美濃方面の織田信孝は秀吉に与した兄・織田信雄に岐阜城を包囲されて降伏、信孝は尾張国内海(愛知県南知多町)に移され、4月29日(6月19日)信雄の使者より切腹を命じられて自害した。残る伊勢方面の滝川一益はさらに1か月篭城し続けたが、ついには開城、剃髪のうえ出家し、丹羽長秀の元、越前大野に蟄居した。
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