伊予への転封途上の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 21:28 UTC 版)
寛永13年(1636年)6月1日、1万8000石余を加増の上、伊勢神戸から伊予西条(現在の愛媛県西条市)へ転封となる。これにより、伊予国新居郡・宇摩郡・周敷郡および播磨国加東郡にまたがる6万8000石余の領主となった。ただし同時に家光の命によって加増分のうち加東郡内の5000石を次男の直家に分与したため、直盛の所領は都合6万3000石余である。 この移封について『一柳家史紀要』は、直盛が父祖の地である伊予国への転封を徳川家光に請うて許された、との話を載せる。移封の決定は『藩翰譜』によれば寛永13年(1636年)6月という。しかし、直盛は任地に赴く途上の寛永13年(1636年)8月19日、病のために大坂にて没した。享年73。 大坂上寺町の大仙寺に葬られた。また、伊勢神戸の龍光寺に髪塚がある。 直盛の遺領6万3000石余は分割されて、西条藩を継いだ長男の直重が3万石を相続、また次男の直家が2万3000石余(伊予川之江藩→播磨小野藩)、三男の直頼が1万石(伊予小松藩)をそれぞれ相続した。その後、嫡流は直重の子直興の代で改易されるが、小野藩・小松藩は廃藩置県まで存続した。
※この「伊予への転封途上の死」の解説は、「一柳直盛」の解説の一部です。
「伊予への転封途上の死」を含む「一柳直盛」の記事については、「一柳直盛」の概要を参照ください。
- 伊予への転封途上の死のページへのリンク