井上党誅殺事件
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井上党誅殺事件(いのうえとうちゅうさつじけん)は、戦国大名の毛利家臣井上元兼をはじめとする井上党、約30数名を毛利元就が誅殺した事件である。
経緯
誅殺事件の発端となったのは、井上党の存在感だった。はじめ、元就の父の毛利弘元が、井上党を従属国衆という立場で従わせ、あいまいな立場を続けてきたことから、次第に井上党の存在感や態度は大きくなっていく。はじめは元就もこれを黙認していたが、家中の和を乱す行為がたびたび見られたため、元就は誅殺を決意。ついに実行される。
まず手始めに、井上元有を、小早川隆景の居城、新高山城に呼び寄せ、誅殺。事件の幕が開かれた。翌日、元就は、元兼の息子、井上就澄を吉田郡山城に呼び寄せ、これも誅殺した。さらに、志道元保らの隊に、もう一人の元兼の息子、井上就兼を攻め滅ぼした。さらに、井上元貞、井上就重といった井上一族も多くが誅殺された。さらに、元就本隊や、福原貞俊、桂元忠によって包囲された元兼も降伏して自刃した。
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