門田元久
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/29 10:01 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
改名 | 麻原元久→門田元久 |
別名 | 通称:新太郎 |
官位 | 河内守、三河守(受領名) |
主君 | 毛利弘元→興元→幸松丸→元就→隆元 |
氏族 | 大江姓毛利氏庶流麻原氏→門田氏 |
父母 | 父:麻原之広 |
子 | 就顕 |
門田 元久(もんでん もとひさ)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。父は麻原之広。初めは麻原 元久(おばら もとひさ)と名乗る。
出自
元久が生まれた麻原氏は、室町期の毛利氏当主・毛利元春の三男である毛利広内を祖とし、広内の子の弘親は「毛利」の名字を名乗ったが、弘親の子の是広が安芸国高田郡麻原郷[注釈 1]に居住して「麻原」の名字を名乗ったことに始まる[1][2]。是広以降は、忠広、頼広、之広、元久と続く[3]。
生涯
毛利氏庶流の麻原之広の嫡男として生まれる[1]。初めは安芸国高田郡麻原郷[注釈 1]に居住して「麻原」の名字を名乗っていたが、同郡の門田山[注釈 2]に清原城を築いて移り住んだことから、名字を「門田」に改めた[1][4]。
天文19年(1550年)7月12日から7月13日にかけて毛利元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠等を誓った起請文においては、4番目に「門田三河守元久」と署名している[注釈 3][5]。
弘治3年(1557年)12月10日に毛利元就・隆元父子が毛利氏の五奉行である桂就宣、赤川元保、国司元相、粟屋元親、児玉就忠に宛てた、毛利家における弘治4年(1558年)の正月儀礼で家臣や国人らが挨拶を行う日程の予定を記した「正月佳例書」[6]によると、1月2日の予定に親類衆とその子共衆や相伴衆に加えて、元久のような外様衆も加えると記されている[7]。元久以外の外様衆が誰であるかは記されていないが、ここで元久ら外様衆が加えられた理由としては、親類衆ほど近い親族ではないものの、元久が毛利氏庶流の麻原氏の出身であるように、広い意味での「親類衆」に該当すると判断されたためと考えられている[7]。なお、親類衆としては福原貞俊、桂元澄、長屋元定、志道元保、口羽通良、坂少輔六郎の名が記されており、相伴衆として飯田与三次郎、渡辺長、国司元相の名が記されている[6]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d 萩藩諸家系譜 1983, p. 1058.
- ^ 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 6.
- ^ 萩藩諸家系譜 1983, pp. 1058–1059.
- ^ 清源城跡(甲田町) - 安芸高田市
- ^ 『毛利家文書』第401号、天文19年(1550年)7月20日付、福原貞俊以下家臣連署起請文。
- ^ a b 『閥閲録』巻15「國司隼人」第80号、弘治3年(1557年)12月10日付け、桂左衛門大夫(就宣)殿・赤川左京亮(元保)殿・國司右京亮(元相)殿・粟屋右京亮(元親)殿・児玉三郎右衛門(元良)殿宛て、(毛利)元就・(毛利)隆元連署状。
- ^ a b 矢田俊文 1982, p. 66.
参考文献
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-2 毛利家文書之二』東京帝国大学、1922年2月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。
OCLC 703821998。全国書誌番号:
73004060。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 矢田俊文「戦国期毛利権力における家来の成立」『ヒストリア』第95号、大阪歴史学会、1982年6月、52-73頁。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQ。
NCID BN01905560。全国書誌番号:
84027305。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 山口県文書館編『閥閲録』巻15「國司隼人」、巻82「門田次郎兵衛」
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