門田就顕とは? わかりやすく解説

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門田就顕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/29 09:57 UTC 版)

 
門田 就顕
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正元年(1504年
死没 天正2年3月25日1574年4月16日
改名 門田貞広[1]→門田就顕
別名 通称:少輔十郎[1]→五兵衛尉[1]
官位 宮内大輔官途名[1]
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 大江姓毛利氏庶流門田氏[2]
父母 父:門田元久[1]
新太郎[1]元忠[1]、元貞[1]
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門田 就顕(もんでん なりあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の家臣。父は門田元久。初名は「貞広」。

生涯

永正元年(1504年)、毛利氏庶流の門田元久の子として生まれる[1][3]

天文9年(1540年9月12日に行われた吉田郡山城の戦いの局地戦である鎗分の戦いに参加しており、合戦注文にも「門田宮内大夫」の名が記されている[4]

天文11年(1542年3月28日毛利元就から石見国邑智郡阿須那の藤禰名の内の1の地を給地として与えられる[5]

天正2年(1574年3月25日に死去[3]。享年71[3]。長男の新太郎は早世しており、次男の元忠が後を継いだ[1][3]。また、就顕の遺言により、三男の元貞に元忠から知行地が分与されている[1][3]

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 萩藩諸家系譜 1983, p. 1059.
  2. ^ 萩藩諸家系譜 1983, p. 1058.
  3. ^ a b c d e 『閥閲録』巻82「門田次郎兵衛」家譜。
  4. ^ 『毛利家文書』第287号、郡山城諸口合戦注文。
  5. ^ 『閥閲録』巻82「門田次郎兵衛」第2号、天文11年(1542年)3月28日付け、門田宮内大輔(就顕)殿宛て、(毛利)元就宛行状。

参考文献




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