今枝重直
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| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
| 生誕 | 天文23年(1554年) |
| 死没 | 寛永4年12月23日(1628年1月29日) |
| 改名 | 定直(初名)→重直 |
| 別名 | 通称:弥八 |
| 官位 | 従五位下・内記 |
| 主君 | 織田信長→信雄→豊臣秀吉→秀次→前田利長 |
| 藩 | 加賀藩士 |
| 氏族 | 今枝氏 |
| 父母 | 父:今枝忠光 |
| 兄弟 | 重直、日置忠勝室 |
| 妻 | 平松與左衛門娘 |
| 子 | 養子:直恒 |
今枝 重直(いまえだ しげなお)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、前田家の家臣。
経歴
天文23年(1554年)、斎藤道三の家臣・今枝忠光の子として生まれる。
織田信長に仕え、元亀元年(1570年)、稲葉良通に属して姉川の戦いに出陣する。元亀元年(1571年)、安藤守就に属して伊勢長島に出陣する。天正3年(1575年)、長篠の戦いに出陣する。
信長没後は次男・織田信雄に仕え、天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに出陣する。敵方の池田恒興勢を偵察中に、陣中の池田家家臣で重直の妹婿の日置忠勝から狙撃を受けている。
後に豊臣秀吉、豊臣秀次に仕え、秀次の家臣として5300石の知行を得る。文禄3年(1594年)、秀次の奏請で従五位下・内記に叙任される。同じく秀次に仕える津田重久と共に、豊臣姓を賜った(津田重久ものち、前田家に仕えた)。
文禄4年(1595年)の秀次の没後、前田利長に3000石で仕える。後に2500石の加増を受ける。慶長3年(1598年)に日置忠勝の五男の直恒を養子に迎えた。以来、今枝家と日置家は代々縁組を重ねる間柄となった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い時には、前田家の北陸方面の戦いに参加し、西軍の山口宗永の加賀国大聖寺城攻めに出陣した。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には奥村栄明に属して出陣し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣にも出陣した。
元和5年(1619年)、隠居して家督を養子の直恒に譲り、隠居料500石を賜る。
晩年は宗二居士と号し、京都上高野の地にもうけた庵に隠棲し、詩書や絵画、茶道に通じた文人として過ごした[1]。
寛永4年(1627年)12月、金沢で死去。享年74。
逸話
- 重直が美濃国に住んでいた頃、長良川で鮎を獲っていたときに、通りすがった男に鮎を1尾所望され、5尾分け与えたことがあった。後に、重直が諸将と共に安土城で信長に謁見したときに、声をかけて来た男から、鮎の御礼を言われた。その男が明智光秀であった。
- 重直は生前、仏道への帰依の念が深く寺院の建立を願っていたが果たせずに死去した。そのため、孫にあたる加賀藩士・今枝近義が京都に池泉鑑賞式の小庭園を伴う小寺院を建立し(寛文2年(1662年))、祖父の菩提を弔った[1]。この小寺院は今日にも京都市左京区に蓮華寺として存続し、その庭園の造形美によって知られている。
関連項目
脚注
- ^ a b 安井 攸爾・角野 康夫、1997、『蓮華寺』、淡交社〈京の古寺から18〉 ISBN 4473015548 p. 67
参考文献
- 加賀藩史稿 - 近代デジタルライブラリー
固有名詞の分類
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