南唐滅亡時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:57 UTC 版)
しかし開宝8年(975年)、南唐は中国統一を目指す北宋から攻撃を受け、首都・金陵を包囲されて兵糧攻めにされてしまう。この危機に際し、鉉は皇帝・李煜(りいく、「煜」は火へんに「日」の下へ「立」を置いた字)によって使者となり、包囲を解いてもらうよう交渉した。 太祖・趙匡胤と面会した鉉は、南唐が北宋に臣下の礼を取っていることを種に、以下のように切り出した。 「私どもの主が陛下に仕える様は、まさに子が父に仕えるようでございます。どこにも過ちなどございませぬのに、何故お討ちになどなられるのですか」 しかし太祖にそれを逆手に取られて、 「では、なぜお主はその父と子を引き裂くような真似をすると申すのか」 と返されてしまい、徐鉉は何も言い返せず交渉決裂となった。 それでもなお李煜は和平交渉をあきらめず、11月に再び鉉は使者として太祖にまみえることになった。この時は太祖が李煜を討つ大義名分として詔に応じなかったことを楯にしているのを踏まえ、素直に理由を述べた。 「私どもの主が詔に対し参上しなかったことをお怒りのようですが、あれは病に臥せっていたためであります、決して詔を拒もうとしたのではありません。どうか、どうか兵をお緩めくださり、この国をお助けくださいませ」 しかし太祖は激昂、抜剣して徐鉉に迫り叫んだ。 「これ以上申すことなどないわ! 江南の国主如きの罪のあるのないのが、今さら何だというのだ! そもそも天下は一つの家なのだぞ。他人が寝ておる横で、図々しく大いびきかいておるような奴を許しておけるか!!」 この太祖の聞く耳を持たない剣幕に徐鉉は引き下がらざるを得なくなり、ここに完全に和平交渉は失敗した。 結局翌12月、南唐は北宋の軍門に下り、鉉は李煜とともに北宋の首都・開封に移されることになった。なお、この時に捕虜となるのを嫌った弟・徐鍇が懊悩の末に急死するという悲劇が起きている。
※この「南唐滅亡時」の解説は、「徐鉉」の解説の一部です。
「南唐滅亡時」を含む「徐鉉」の記事については、「徐鉉」の概要を参照ください。
- 南唐滅亡時のページへのリンク