南和鉄道との関係および起点の変更
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/01 13:53 UTC 版)
「紀和鉄道」の記事における「南和鉄道との関係および起点の変更」の解説
路線を接し、大阪への経路となる南和鉄道との関係は必ずしも良好ではなかった。南和鉄道との関係は紀和鉄道の将来の盛衰に影響するとして、南和鉄道への影響力を確保する目的で紀和鉄道の重役が南和鉄道の株式の買占めを行った。重役が購入したのは4720株で、この株の時価との差額は会社と個人の間で7対3で分担することとした。 1898年(明治31年)1月には紀和鉄道の全線開通後に合併するとの契約を結んだ。合併の条件は、紀和鉄道の全線が開通し、1年平均5朱(5パーセント)の配当を実現できた時点で、となっていたが、結局配当の条件を満たせなかったために実現しなかった。 また、五条と接続点との間の南和鉄道所有の路線の運営については、紀和鉄道全線開通までの暫定の共用であるとして認可を得ており、いずれは五条から紀和鉄道独自の路線を南和鉄道線に並行して建設する必要があるとされていた。これに基づき紀和鉄道では、一度は土地の測量に着手すべく奈良県知事の許可を得たものの、もともと南和鉄道の二見駅に至る貨物線の利用は少ない状況であり、これに並行して紀和鉄道線を敷設するのは費用の無駄で、社会にとっても利益にならないとの意見が紀和鉄道社内から出てきた。このため、紀和鉄道の起点を五条から分岐点の位置に変更して、二見への貨物線の途中から分岐する形態を恒久的な形態とすべく、南和鉄道と交渉を開始した。この交渉は難航したが、関西鉄道の社長鶴原定吉が仲介を行ってついに合意が成立し、1901年(明治34年)7月1日付で紀和鉄道が南和鉄道の五条 - 分岐点間を借り受けて営業することで契約が成立した。同年10月9日逓信大臣の認可を得て、紀和鉄道の起点が正式に分岐点に移転された。 1902年(明治35年)6月3日付で分岐点にあたる五条起点79チェーン(約1,589 m)地点に二見駅(後の大和二見駅)が開設され、同日従来の二見駅は川端駅に改称された。五条 - 二見間は南和鉄道の路線のままで、川端駅に発着する貨物列車も南和鉄道が運行していたが、旅客列車については紀和鉄道側が運行を行い、列車運行費用を南和鉄道が紀和鉄道に支払うことになっていた。また二見駅は紀和鉄道側の管理とされていた。
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