中国大陸の租庸調
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 03:53 UTC 版)
中国大陸の租庸調は、北周(556年 - 581年)に始まり、唐(618年 - 907年)で完成した。以下は、唐における租庸調である。 租 均田制に基づく田地の支給に対して、粟(穀物)2石を納める義務を負った。これが租である。租は穀物を納める税であったが、当時の唐の基盤となった華北の主食は粟(アワ)であり、租の本色(基本的な納税物)は粟とされていた。 庸 律令においては、本来は年間20日の労役の義務があり、それを「正役」と称した。正役を免れるために収める税が庸であったが、唐代中期以後は庸を納めることが一般化した(なお、雑徭2日分が正役1日分と換算されたため、雑徭を年間40日を行った者はその年の正役も庸も免除され、庸を正役20日分納めた者は雑徭も40日分免除された)。正役1日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収めることとされていた。 調 調は、絹(絹織物)2丈と綿(真綿)3両を収めることとされていた。 ただし、租庸調は南北朝時代統一以前の北朝支配下の農民の実態に合わせた租税制度であったと見られ、隋(581年 - 618年)になってから統治下に含まれるようになった旧南朝支配地域でそのまま実施されたかについて疑問視する意見もある(南朝支配下の華南は稲を主食とし、農民の生産活動が華北とは大きく異なるため)。 均田制が崩壊し、大土地所有の進行の一方で、本籍から離れ小作人となる農民が増えるようになると、制度の維持が難しくなり、地税・青苗税・戸税などの弥縫的な税を経て、建中元年(780年)、徳宗の宰相楊炎の建議により、実際の耕地に応じて徴収する両税制が施行されると、それが主たる歳入源となり、租庸調は形骸化した。
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