ソ連脅威論と中国脅威論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 13:48 UTC 版)
「中国脅威論」の記事における「ソ連脅威論と中国脅威論」の解説
日本やアメリカにおいては1950年代から1990年代、つまり冷戦中の脅威はソビエト連邦であった(ソ連脅威論)。 1960年には日米安保条約が締結、日米同盟による安全保障が図られた。 1960年代には中国脅威論が展開され、日本は米国と共に反共主義及び封じ込め戦略が展開された。 一方で1964年10月に中国は初の核実験を行ったが、当時の米国の態度は緩やかなものであったといわれている。これは中ソ間に対立がみられたからであり、ソ連と決別した中国の核は米国の対ソ戦略上において牽制的に有利に働くだろうという目論見があったためである。 ベトナム戦争では北ベトナムを支援する中国と南ベトナムを支援するアメリカの間に当初は対立が見られた。しかし、ベトナム戦争で苦戦を強いられていたアメリカは中ソ国境紛争でソ連との関係が悪化していた中国に接近。その後、リチャード・ニクソン大統領の中国訪問の衝撃を経て、1972年に日中国交正常化が実現した。 対ソ戦略という観点で米中関係には利害の一致が見られ、1970年代末からはアメリカが中国に兵器や軍事技術を供与し軍の近代化に協力した経緯がある。 1980年代にソ連脅威論が再び台頭するが、ソビエト連邦の崩壊によって終了する。
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