松村松年とは? わかりやすく解説

まつむら‐しょうねん【松村松年】

読み方:まつむらしょうねん

18721960昆虫学者兵庫生まれ。和名の整理をするなど、日本近代昆虫学基礎築いた。著「日本昆虫学」など。


松村松年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/18 04:20 UTC 版)

1954年

松村 松年(まつむら しょうねん、1872年4月12日明治5年3月5日) - 1960年昭和35年)11月7日)は、日本昆虫学者北海道大学名誉教授理学博士農学博士。日本の近代昆虫学の基礎を築いた先覚者で、「日本昆虫学の祖」と称される[1]。日本産昆虫の和名の命名法を創案するとともに、日本産昆虫約1,200種の命名者である[2]。教育者としても多くの昆虫学専門家を育成し、1898年(明治31年)に著した『日本昆虫学』は、日本人による近代昆虫学の最初の単行書として知られる[3]

経歴

兵庫県明石郡大明石町(現在の明石市)に漢学者・松村如年(如屏)の3男として生まれる[4]。兄に画家で発明家の松村竹夫、キリスト教伝道者の松村介石、叔父の孫に橋本関雪がいる。

1884年(明治17年)、大阪川口英和学舎(現・立教大学)入学[5]。1885年(明治18年)6月に退学し、同年9月に、京都同志社英学校に入学。のち退学し、上京する[4][6]。 1886年(明治19年)8月、明治学院予備校に入学し、1887年(明治20年)6月、札幌農学校予科第3級に入学[4][6]。1888年(明治21年)1月、札幌農学校に入学。当初は工科で学ぶが昆虫学を志し農科に移る。昆虫学は橋本左五郎に師事し、在学中の校長は新渡戸稲造であった。

1895年(明治28年)7月同校卒業(第13期)。同校研究生となり、1896年(明治29年)に札幌農学校助教授に就任[7][4][6]

1899年(明治32年)5月からドイツベルリン大学ブダペストに留学し、1902年(明治35年)10月に帰国。札幌農学校教授となる。1903年(明治36年)理学博士となる。

1907年(明治40年)に札幌農学校の東北帝国大学移行に伴い東北帝国大学札幌農科大学教授に就任。1918年(大正7年)に札幌農科大学の北海道帝国大学独立に伴い北海道帝国大学農科大学教授となり1934年(昭和9年)に退官するまで昆虫学教室を主宰した。1919年(大正8年)農学博士となる。

1947年(昭和22年)まで日本昆虫学会会長を務めた。

1950年(昭和25年)、日本学士院(当時の第二部自然科学部門)会員になる。同年11月14日には、新会員一同が昭和天皇から皇居に招かれ午餐を陪食。食事後には、松村を含む会員らが各自の研究について奏上した[8]。 1954年(昭和29年)に文化功労者となる。1959年(昭和34年)に明石市名誉市民。1960年(昭和35年)勲一等瑞宝章を受章。名前の松年の読みは、初めはマツトシの名を用いたが、後に自らショウネンを用いた[4]

日本の近代昆虫学を築いた人物であると評され、日本に生息する昆虫の命名法(和名)を創案した。学名に「Matsumura」とつく昆虫も数多い。1898年(明治31年)初版の『日本昆虫学』、1904年(明治37年)から始まる『日本千虫図解』シリーズは兄の松村竹夫の昆虫図とともに評価を得た。1926年(大正15年)に創刊した昆虫学雑誌『Insecta Matsumurana』は2022年現在においても刊行されている[9]

北海道大学の教授を務めていた際に住んでいた札幌市北8条西5丁目の家は、2023年(令和5年)現在九州料理店「ぶあいそ 別邸」として使われている。

墓所は雑司ヶ谷霊園にあり、布袋の像の形をしており、布袋塚と刻まれている。天保十二年の銘がある。

母校である立教学院校友会の顧問も務め[5]、1928年(昭和3年)に設立された立教学院後援会でも顧問を務めた[10]。立教学院校友会北海道支部会の支部長も務め、会合では毎回雄弁に語った。参加者たちは松村博士の一流の世相の観察にただ感嘆するばかりであったという[11]

栄典

  • 1934年(昭和9年)5月2日 - 正三位[12]
  • 1954年(昭和29年)- 文化功労者、昆虫学者としては初めて[13]

人物・エピソード

  • 1877年(明治10年)に小学校に入ってから自製の捕虫網でトンボなどを追ったりして7回の落第のすえ札幌農学校を卒業。新渡戸稲造にその才を見ぬかれて29年同校の助教授となった。
  • 著作については人の肩の高さがその人のなし得る最大限とされるが、松村は自分の肩を指して、「僕はもうここまで書いたよ」と北大退職数年前に言ったという[14]
  • 30年前あまり前の1992年、千葉県茂原市の旧NTT茂原支店敷地内の公衆電話ボックスに突然“出現”した体長2mの巨大なセミのオブジェ。モデルになったヒメハルゼミは、茂原市の郷土史家 林寿祐が発見し、松村が新種として確認、愛知県の女性昆虫学者が小さいという意味の「姫」を付けて「姫春蝉(ヒメハルゼミ)」と名付けた[15]

著書

日本千虫図解 全4巻

続日本千虫図解 全4巻

新日本千虫図解 全4巻

増訂日本千虫図解 全2巻

日本通俗昆虫図説 全5巻

校閲

脚注

  1. ^ 講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」 『松村松年』 コトバンク
  2. ^ 北海道大学総合博物館 『松村 松年 』
  3. ^ 株式会社平凡社「百科事典マイペディア」 『松村松年』 コトバンク
  4. ^ a b c d e 長谷川 仁「明治以降物故昆虫学関係者経歴資料集 : 日本の昆虫学を育てた人々」『昆蟲』第35巻第3号、東京昆蟲學會、1967年9月、1-98頁、ISSN 09155805 
  5. ^ a b 『立教大学新聞 第79号』 1951年(昭和26年)7月20日
  6. ^ a b c 伊藤 修四郎「しろあり対策の先覚者 名和 靖先生(8)」『しろあり』第54巻、社団法人日本しろあり対策協会、1983年10月、3-15頁、 ISSN 03889491 
  7. ^ 松村は新渡戸と助教授として残る際の給料の交渉をし5円の増額を約束させるが、実際の就任時には増額されておらず、5円の増額はどうしても駄目だったと新渡戸がにこにこ笑っていたというエピソードを残している。出典:北海道大学広報誌『リテラ・ポプリ』26号(2006年春号)
  8. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十一』東京書籍、2017年3月30日、154頁。 ISBN 978-4-487-74411-4 
  9. ^ 北海道大学農学部 『INSECTA MATSUMURANA』
  10. ^ 『立教大学新聞 第72号』 1928年(昭和3年)12月5日
  11. ^ 『立教大学新聞 第91号』 1930年(昭和5年)9月25日
  12. ^ 『官報』第2198号、「叙任及辞令」1934年05月03日。
  13. ^ 一色周知『松村松年自伝 弔辞』造形美術協会出版局、11頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2973346/1/10 
  14. ^ 一色 編『松村松年自伝 門下生総代 弔辞』、15-16頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2973346/1/12 
  15. ^ 日本放送協会. ““巨大なセミ” なぜそこに? | NHK”. NHK千葉. 2025年1月24日閲覧。

関連項目

  • 花まつり - 言葉の起源とされる、1901年にベルリンで催された「Blumen Fest(ブルーメンフェスト)」の発起人の一人。
  • 仁礼景雄 - 松村松年の『新日本千虫図解』の誤りを具体的に列挙し、その杜撰さを批判。
  • 渡辺亀作中国語版 - 警察官で在野研究者。北埔事件の被害者の一人、松年は彼を偲んで、ワタナベ・ビワハゴロモ中国語版タイワンアゲハ中国語版(ワタナベアゲハ)等いくつかの台湾の昆虫に彼の名を付けた
  • 内田登一 - 教え子、後継者(自伝p285)

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