信長包囲網の瓦解・秀吉との攻防
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「毛利輝元」の記事における「信長包囲網の瓦解・秀吉との攻防」の解説
輝元が上洛を断念したことは、自らが救援するはずだった三木の別所氏、摂津の荒木村重のみならず、大阪の石山本願寺をも見捨てることを意味していた。 天正6年11月6日、毛利水軍は本願寺に物資を運び入れるため、石山に再び来援したが、九鬼嘉隆の鉄甲船を用いた織田水軍に敗北を喫した(第二次木津川口の戦い)。以後、毛利氏は淡路島以西の制海権は保持したままであったが、大阪湾は織田水軍に封鎖された。本願寺は輝元自らの援軍も見込めなくなったこともあり、次第に戦況が不利となっていった。 また、輝元と同盟関係にあった上杉謙信が天正6年3月に死去すると、その2人の養子・上杉景勝と上杉景虎が跡目を争う、御館の乱が勃発した。天正7年にこの乱を制した景勝もまた信長との抗争を継続したが、上杉氏は北陸方面で大きく勢力を減退し、信長包囲網が瓦解し始めてきた。 天正7年9月、輝元の上洛による援軍をあてにしていた荒木村重は織田方との戦いで不利に陥り、有岡城から退去を余儀なくされた。また、同年11月に有岡城が落城し、その他諸城も織田方の手に落ち、村重は毛利氏領国へと逃亡した。 天正8年(1580年)1月、織田軍の羽柴秀吉が三木城を長期に渡って包囲した結果、三木城は開城、別所長治は自害した(三木合戦)。 閏3月、本願寺は三木城の開城を受けて、勅命による織田氏との講和に応じた。顕如らは石山を退去することとなり、摂津における毛利方勢力は壊滅した。 さらに、5月までに但馬の毛利方勢力も織田氏に降伏した。南条氏によって但馬への連絡ルートを断たれた結果、但馬の国人らは抵抗を断念せざる得なかった。 5月、秀吉は播磨を平定し、播磨の毛利方勢力も壊滅した。その後、同じく但馬を平定した弟の秀長と合流し、因幡へと侵攻した。秀吉は因幡の諸城を落とし、同年6月には因幡守護の山名豊国は降伏を余儀なくされた。 同年8月、輝元が吉川元春を主力とする軍勢を南条氏に向けると、因幡では豊国の家臣らが毛利氏に内通し、豊国を鳥取城から追放した。その後、毛利氏は名将・吉川経家を城番として因幡に派遣し、天正9年(1581年)3月に鳥取城に入城させた。だが、同年7月から秀吉は鳥取城の兵糧攻めを開始したため、城内は深刻な兵糧不足に陥り、同年10月に経家は自害を余儀なくされ城は開城した。 天正10年(1582年)2月、毛利軍と宇喜多軍は備前児島に近い、八浜において合戦を行った(八浜合戦)。毛利氏はこの戦いに勝利し、宇喜多秀家の名代・基家を討ち取った。だが、宇喜多氏はこの大敗を秀吉に報告し、秀吉はこれを受けて、中国地方への出陣を決意した。 3月、輝元と同盟関係にあった甲斐の武田勝頼もまた、甲州征伐で織田氏に敗れ、自害し果てた。武田氏の滅亡、上杉氏の衰退により、信長包囲網が瓦解し、輝元ら毛利氏はさらに不利な状況に追いやられた。また、輝元は四国の長宗我部元親とも同盟関係にあったが、信長は長宗我部氏討伐のため、三男・織田信孝に四国への出兵を準備させていた。 4月、秀吉が備中に侵攻したが、毛利氏の軍事動員能力は天正4年から7年続いた戦いで限界に達しつつあり、備中諸城には毛利氏の支援もなく、落城するか調略されるかにより降伏した。そして、同月に毛利氏の忠臣で勇名を馳せていた清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃し、5月には水攻めを行った(備中高松城の戦い)。 同月、輝元は急報を受けて、元春・隆景らと共に総勢5万の軍勢を率い、高松城の救援に向かった。そして、輝元は猿掛城に布陣し、高松城に近い岩崎山(庚申山)に元春、その南方の日差山に隆景を布陣させ、秀吉と対峙する。だが、輝元らは積極的な行動を起こせず、5月21日になって輝元は元春とともに織田勢と対峙する位置に陣を移したほどだった。 援軍としてやってきた毛利氏が動けなかった理由としては、秀吉の毛利水軍に対する調略により、来島水軍、高畠水軍、塩飽水軍が離反していていたことにあった。これにより、毛利氏は制海権を失い、陸路からのみの補給に頼らざるを得ず、そのために絶望的に物資が不足しており、輝元の本陣でさえ物資が不足する有様であった。また、毛利勢は水攻めにされた高松城に対して、船を使って物資を救援しようとしたが、その船すら入手できない状態であった。 そのうえ、5月末には信長自らが毛利氏討伐のため、京の本能寺で備中高松城に赴く準備をしており、毛利氏は危機的な状況に陥った。
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