信長包囲網の崩壊と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 22:01 UTC 版)
元亀4年(1573年)4月、承禎は湖東に進出し鯰江貞景の鯰江城に入った。信長は百済寺に陣を構え、佐久間信盛・柴田勝家・蒲生賢秀・丹羽長秀により鯰江城を囲んだが、同月11日に百済寺が六角勢を支援していたとして寺を焼き払い、攻略を諦めて岐阜に帰還している。 しかし、天正元年(1573年)8月、承禎と連携していた朝倉義景・浅井長政が刀根坂の戦い・小谷城の戦いでそれぞれ敗れ、信長に討たれてしまう。同年9月4日、信長はそのまま佐和山城に入り、六角義治の籠る鯰江城攻めを柴田勝家に命じ、今度はこれを落とし9月6日に岐阜へ凱旋した。更に、同月、承禎の籠る甲賀郡北部の菩提寺城と石部城も佐久間信盛に包囲された。同年10月25日、長島一向一揆を攻めた織田勢は帰陣の際に甲賀・伊賀勢を加えた門徒に襲撃され殿軍の林通政が討ち取られたが、信長は難を逃れ大垣を経て岐阜に帰還した。翌天正2年(1574年)4月13日、菩提寺城と石部城もついに落城し、承禎は夜間雨に紛れ甲賀郡南部の信楽に逃れた。一方、畿内においては、同年正月に大和の松永久秀が信長に服属、同年11月に摂津の伊丹親興が織田方の荒木村重に城を落とされ自害、山城や摂津に居た三好三人衆も霧散し、畿内はほぼ信長に制圧された。 その後、承禎は甲賀と伊賀の国人を糾合して信長に抗戦したとも、石山本願寺の扶助を受けていたとも、あるいは隠棲していたともいわれるがはっきりしていない。天正9年(1581年)4月には、長年独立を保っていた伊賀もついに信長に平定された(天正伊賀の乱)。同年、承禎はキリシタンの洗礼を受けている。 その後、承禎は天下を掌握した豊臣秀吉の御伽衆となり、秀吉が死去する前の慶長3年(1598年)3月14日に死去した。享年78。子の義治は慶長17年(1612年)、義定は元和6年(1620年)にそれぞれ死去した。承禎の位牌は嫡男・義治と共に、京都府京田辺市の一休寺にある。義治の系統は加賀藩士、義定の系統は江戸幕府旗本となった。
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