武蔵国留守所総検校職
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留守所とは、遙任などで国司の居ない国衙のことである。在庁官人が実務を代行した。在庁官人の仕事の1つは治安維持である。秩父氏は「武蔵国留守所総検校職」(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)に就いたことで武蔵国の在庁官人のトップとして、国内の武士を統率・動員する権限を持っていた。武蔵七党などの武士団の顔役であった。1113年(永久元)、横山庄を巡る主権争いから、相模国の愛甲庄を統治していた内記大夫を討ったことで、横山党が院から討伐を受けると、秩父重綱は相模国の三浦為継、鎌倉景正らと共に命令を実行したが、横山党は源為義の保護の下に危機を脱した。横山隆兼の娘は秩父重弘の妻となり畠山重能・小山田有重を産む。さらに隆兼の孫娘のうち一人は三浦一族の和田義盛、一人は高座渋谷の渋谷高重の妻となった。 茂木和平『埼玉苗字辞典』による留守所総検校職についての見解では、日本歴史大辞典に「総検校職とは、国検の時に文書に連署したりする国衙の在庁官人で、国府に在勤した公吏職者のこと」とあるが、留守所総検校職が置かれたのは武蔵国と大隅国だけであった。この職が国衙在庁官と同じならば、諸国六十余州にもあってよさそうである。また、秩父重綱は出羽国に居住しており、かりに、本貫地の秩父郡吉田郷に居住していたとしても、多摩郡府中の国府はあまりにも遠方すぎる。当時の武蔵国府の在庁官は日奉氏・物部氏等であって、代理人に秩父氏の名は見えない。実は、この職は、鉱山鍛冶師の元締めであり、多くの盲人や眼病者を庇護し支配していたのである。近世の盲官を検校と称すのと同じである。つまり、京都の鋳物師総元締の真継氏より任命されて、東国の留守所の職を務め、鍛冶・鋳物・石工に至る職業の加判をしていたであろう、と考えられるのである。さらに、鍛冶頭領畠山重忠滅亡後、河越氏は足立郡川口郷善光寺付近へ移住して鍛冶鋳物集団を支配していた。それゆえに、河越修理亮重資は総検校職を所望したのであろう、と考えられるのである。 反面、在庁官人の役職は家督と結びついていた為、同族内の争いの元となることが多かった。秩父氏においても、河越氏と畠山氏の争いの火種となった。 1231年(寛喜3年)には形骸化していたとされる。『吾妻鏡』によると、河越重員は北条泰時によってこの職に任じられた。しかし武蔵国の実権は北条氏得宗が握っており、儀礼的な職務になっていたとの意見がある。
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