武蔵国造の乱での関与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 09:08 UTC 版)
『日本書紀』には、安閑天皇元年(534年?)に起きたとされる武蔵国造の笠原氏の内紛(武蔵国造の乱)において、上毛野氏の関与が記されている。この乱の中で、笠原使主は朝廷に援助を、小杵は上毛野小熊に援助を求め、最終的に使主が勝利した。 上毛野小熊含め上毛野氏は上毛野国造であったと推測されており、古くから定説として「使主 - ヤマト王権」対「小杵 - 上毛野」という対立の構造が提唱されてきた。この中で、小杵の敗死とともに上毛野地域内に「緑野屯倉」が設けられ、その勢力が大きく削がれたと推測されている。ただし、上毛野小熊が助けの求めに応じたかは明らかでないこと、小熊は処罰を受けておらずむしろ小熊以降に上毛野氏の繁栄が見られること、緑野屯倉が事件に関わるという証拠がないことなどから反論もある。 考古資料においては、5世紀後半に上毛野の古墳が小型化する一方、武蔵の埼玉古墳群(武蔵国造の本拠地と推測される)が成長するという傾向が見られる。
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