武蔵国衙跡とは? わかりやすく解説

武蔵国府跡

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/10 14:04 UTC 版)

武蔵国府跡(武蔵国衙跡地区)

座標: 北緯35度40分8.4秒 東経139度28分47.5秒 / 北緯35.669000度 東経139.479861度 / 35.669000; 139.479861

武蔵国府跡
位置

武蔵国府跡(むさしこくふあと)・国史跡 武蔵国府跡 国衙跡地区国司館地区)は、東京都府中市に存在する武蔵国国府に関する遺跡である[1]。国の史跡として徳川家康の府中御殿跡、国司館地区も含む。

概要

本項目では、関連する「武蔵国府関連遺跡」についても記述する。

武蔵国府は、府中市に奈良時代の初め頃から平安時代の中頃にかけて置かれ、武蔵国の政治・文化・経済の中心地として栄えていた[2]

国府成立には、府中市内で古墳時代に築かれた古墳群、特に武蔵府中熊野神社古墳が特に関わり合いが深いと推測されている[3]

  • 1977年(昭和52年)宮町2-7調査(26次) 大型建物柱穴群を検出。国衙中枢部分と推定[4]
  • 1995年(平成7年)宮町2-27 当初の京所国衙推定地が「多磨寺」であることが判明(国衙東側範囲が絞られる)[4]
  • 2005年(平成17年)宮町2-5(1284次) 国衙中枢が判明(赤塗りの柱)[4]
  • 2011年(平成23年)大國魂神社境内宮之咩神社建て替え調査(1539次)出入りのための「西門」発見[4]

発掘調査

国衙の中枢にあった建物の柱跡

かつて武蔵国府は、「多麻郡に在り」と『和名類聚抄』に記述があるだけで、所在地に関しては諸説あり、正確な位置が不明であった。

1975年(昭和50年)以降の発掘調査により、大國魂神社境内南北溝と旧甲州街道と京所道に挟まれた、南北300メートル東西200メートルの範囲が「国衙」であると判明し、その中の東西南北100メートルの範囲が国衙の中枢だと考えられる[5]。宮町2丁目5番2、宮町3丁目1番1、1番2、1番3、宮町2丁目1番16と同3丁目1番1に挟まれ同3丁目1番1と同3丁目6番3に挟まれるまでの道路敷きを含む場所が武蔵国府跡と指定された。

国府を中心に、東西2.4キロメートル、南北1.2キロメートル範囲内で住居が発掘され、確認されたものだけで4000軒にも及び、7世紀末~8世紀にかけて爆発的に人口が増加した[6]。主な出土品は、、セン(漢字では、土編に専門の「専」と書き、古代のレンガのこと)、円面

史跡指定範囲内の宮町2丁目5番2に「史跡整備地」が用意され、「ふるさと府中歴史館」と共に見学する事が可能となっている[7][8]

発掘調査は活発で、1400か所以上で行われている[6]。 範囲は武蔵野台地上に広がり、中心は武蔵国総社「大國魂神社」(東京都府中市宮町)にある[9]。大型東西棟・総柱の南北棟建物が発掘され、国府の主要施設が明らかになった。

国府の主要施設・関連遺跡

多磨寺

多磨寺跡出土瓦(府中市郷土の森博物館蔵)

猿渡盛厚は、武蔵総社の東方にある塔心礎と古瓦を残す京所廃寺が、官寺的性格を持っていたとしている。仏堂基壇の跡や幟旗を支える機構が確認されており、出土瓦には諸郡名を刻んだものの他に「多寺」と記した文字瓦があるからである。そして古瓦の発掘発見は広範囲にわたるため、その付近一帯に、国分寺の前身に当る二寺と国庁の存在があったと考察している[11][12][13]。創建年代は、国衙成立に先行する白鳳時代(7世紀後半から8世紀初頭)。瓦は「ふるさと府中歴史館」に展示。

国司館地区

再現された武蔵国府国司居館

府中本町駅のすぐ東側、大國魂神社との間に位置する。西暦700年頃、武蔵国司の館が建てられていた地区[14]。1590年、徳川家康がここに「府中御殿」を築き、徳川秀忠との対談や、鷹狩で度々訪れていた[15]。2008年イトーヨーカドー府中店が店舗複合のため全体発掘調査を行ったことで発見に至っている[16]。イトーヨーカドーはその後断念し閉店した。

府中御殿

1590年建、1646年焼失。府中市本町にある「御殿山」と呼ばれる富士山が見える景勝[17][18]の御殿で、発掘されたのは1646年に焼失した[19][20][21]もの。徳川家康[22]、徳川秀忠、徳川家光が鷹狩[23]鮎漁[24]をした際に休憩や宿泊をしたという御殿跡を発掘し[25]、御殿跡は国の史跡に追加指定された[26]。御殿跡の井戸跡からは三つ葉葵紋の鬼瓦片と志野椀等が出土している[27]。なお、元和3年(1617年)に家康の神柩を久能山から日光へ遷した際、神柩は3月21日から翌日にかけて府中御殿に逗留し、各種法要が行われた[28]。府中御殿は茶屋としても使用され、水を汲むために御殿坂[29]を通り多摩川へ至る道は現在でも「御茶屋街道」と呼ばれている[30]

国司館のVR化

2018年(平成30年)11月、国司居館を推定値の10分の1で再現し、『万葉集』などの文献資料を基に[31]バーチャルリアリティー(VR)で家康の鷹狩などを投影する史跡広場が開設された(記念式典は同月24日)[32]。人物の映像化については、都立農業高校の生徒に依頼[31]。静止画を撮影し、それを基にCG映像を復元した。CG映像は現地で貸し出しているVRゴーグルか、タブレットで見ることが出来る[31]。ゴーグルとタブレットは『武蔵国府スコープ』と名付けられた[31]

脚注

  1. ^ 文化遺産オンライン 武蔵国府跡。
  2. ^ 『国史跡 武蔵国府跡 -国衙地区-』府中市文化スポーツ部ふるさと文化財課 2016年(平成28年)6月発行。
  3. ^ 『府中の古墳』府中市文化スポーツ部ふるさと文化財課 2016年(平成28年)3月発行。
  4. ^ a b c d 武蔵国衙跡の近年の調査成果-武蔵国衙中枢区画を中心として-より。『掘り出された府中の遺跡2014』展示解説参照。
  5. ^ 府中市 国史跡武蔵国府跡。
  6. ^ a b 朝日新聞DIGITAL 「古代の官庁街」国府の調査 活発に。
  7. ^ 府中観光協会 武蔵国府跡。
  8. ^ 日本史大戦略 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察 律令国家の武蔵国における統治拠点・武蔵国府跡。
  9. ^ 府中市 「府中市遺跡地図」。
  10. ^ 『武蔵国衙跡』府中市教育委員会 — 府中市遺跡調査会 府中市埋蔵文化財調査報告第43集<BN01407483><書誌ID(NCID) BA89831059>。
  11. ^ 木下良、「国府跡研究の諸問題」 『人文地理』 1969年 21巻 4号 p.370-405, doi:10.4200/jjhg1948.21.370, 人文地理学会。
  12. ^ OHOKA 武蔵国府跡(府中市)探訪レポート。
  13. ^ 考古 府中市郷土の森博物館、「飛鳥時代の終末~奈良時代初頭頃のもの。今のところ都内では最古の瓦で「多磨寺」は都内最古の寺院」。
  14. ^ 『国史跡 武蔵国府跡 -国司館地区-』府中市文化スポーツ部ふるさと文化財課 2016年(平成28年)6月発行。
  15. ^ 府中市郷土の森博物館運営グループ『徳川御殿@府中』府中市郷土の森博物館、2018年1月27日、86頁。 
  16. ^ 東京都府中市教育委員会 編『国史跡 武蔵国府跡(国司館地区) 第1期保存整備事業報告』東京都府中市教育委員会、2019-3、14頁。 
  17. ^ 府中崖線(ハケ)の上にある。
  18. ^ 新編武蔵風土記稿』巻ノ92多磨郡ノ4 「府中宿 本町 旧跡 御殿跡」「妙光院の西方にあり、東北は平地につづき、西南は三丈ばかりの高崖にして眺望よし、その下は水田なり、廣さおよそ百歩許の丘皐なり、此地は太古当国の国造住し旧蹟なり」(NDLJP:763988/80)。
  19. ^ 武蔵名勝図会』「抑々この地に御殿御造営の初めは、小田原落城豊臣太閤より関八州の地を参らせしより、神君御坐城の地を卜し給いて江城に御定めあり、近国并に近郷の工匠に命じ給いて江城御修理の砌、府中、川越に畋猟(でんりょう)の設けをなして旅館を造営すべし、府中は古えより府庁の地と兼ねて聞召されければ、その旧地へ営むべき旨の台命あり。その頃太閤奥州下向ありしかば、帰陣の前に造畢すべしとて、近隣近里の大匠へ御下知ありて、不日にして御殿造畢すと云」。
  20. ^ 府中市史談会7月講座「府中御殿について」
  21. ^ 家康の府中御殿と江戸入りの頃
  22. ^ 慶長15年(1610年)10月16日に滞在。
  23. ^ 家康の鷹狩りを再現「府中市の武蔵国府跡御殿地地区で」 2012.11.24[リンク切れ]
  24. ^ 秀吉を迎えた家康府中御殿 家康は、将軍即位後も鷹狩や鮎漁の際に、頻繁に府中御殿に滞在
  25. ^ 2010年5月15日、武蔵国府関連遺跡現場説明会資料
  26. ^ 武蔵国府跡に包括。
  27. ^ 江口桂ほか『考古学ジャーナル 2014年1月号』ニューサイエンス社、2014年1月30日、6頁。 
  28. ^ 府中市郷⼟の森博物館だより al museo No.122” (PDF) (2017年12月20日). 2022年4月17日閲覧。
  29. ^ 府中市立郷土館 編『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』府中市教育委員会、1985年11月30日、23頁。 
  30. ^ ふちゅう 市議会便り 221号
  31. ^ a b c d 東京都府中市教育委員会『国史跡 武蔵野国府跡(国司舘地区)第1期保存整備事業報告』東京都府中市教育委員会、2019-3、96頁。 
  32. ^ 「奈良期の建物1/10 府中・国司館と家康御殿史跡広場」『東京新聞』2018年11月25日(2018年11月30日閲覧)。

参考

関連項目

外部リンク


武蔵国衙跡

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国衙」の記事における「武蔵国衙跡」の解説

東京都府中市武蔵総社大國魂神社境内とその東側所在国史跡南北300メートル東西200メートル範囲内国衙確定され、さらにその中の約100メートル四方が溝により国衙中枢部と推定されている。この国衙跡の区画内では掘立柱建物跡礎石跡など、国庁見られている建物跡と共に武蔵国内ほとんどのすべての郡名瓦などが出土している。北側には国庁北門跡があり、大型東西棟、西には総南北棟など中心部施設配置明らかになった。また南西方角の府中御殿跡では国司居宅発見されている。JR府中本町駅発掘調査では、掘立柱建物跡15棟が出土している。

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「武蔵国衙跡」を含む「国衙」の記事については、「国衙」の概要を参照ください。

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