武蔵国分尼寺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 07:23 UTC 版)
旧武蔵国分尼寺は僧寺から東山道武蔵路を挟んで西側に立地していた。伽藍配置ははっきりとは判っていないが、これまでに中門跡、金堂跡、尼坊跡、尼坊付属施設跡、築地塀跡が検出されている。現在判明している限りでは、築地塀に囲まれた伽藍中枢部は中門、金堂、尼坊が一直線に並ぶ形であり、金堂と尼坊の間の空間、かつて宅地開発で破壊された辺りに講堂が存在したのではないかと推測されている。鐘楼、経蔵、南大門などの位置もまだ判っていない。尼坊は5坊を備えており、その規模から合計で10名程度の尼僧が起居していたと考えられている。 伽藍中枢部の背後には小高い丘(国分寺崖線)があり、かつてはこの丘にも国分尼寺の関連施設が存在したとの口碑があったが、近年の発掘調査でこの丘から出たのは中世の寺院跡(伝祥応寺跡)であり、国分尼寺の施設が存在したとしてもこの寺院の建設時に破壊されたのではないかと考えられている。なお、この伝祥応寺跡の丘には切通しがあり、鎌倉街道上つ道跡との口碑が存在している。 尼坊跡
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