重頼死後の河越氏
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文治2年(1186年)8月5日、頼朝が河越荘の年貢未済処理を命ずるなど、河越家に混乱が伺える。文治3年(1187年)10月5日、頼朝は重頼誅殺を「憐れである」として、河越氏本領である河越荘を後家となった河越尼に安堵し、地元の名主・百姓らが従わなかったため、尼の指示に従うよう命じる。これについて木村茂光は文治元年に重頼の老母が河越荘を預かり幼少の孫の地頭との支配体制が実現したものの実効力が伴わなかったため、文治3年に頼朝が河越尼に荘務も雑務も一切を任せたと指摘している。 重頼の次男・重時、三男・重員については『吾妻鏡』において頼朝と二代将軍・頼家の時代には記録が無く、三代将軍・源実朝の代の元久2年(1205年)6月22日条畠山重忠の乱における重忠討伐軍の中に初めて確認される。重忠が滅びた後、武蔵国は北条氏が国司となって代々配下に置かれることになる。 嘉禄2年(1226年)4月、重員が鎌倉幕府より武蔵国留守所総検校職に補され河越氏が復権。重頼誅殺から40年後のことであった。
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