長安陥落と乱の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 07:51 UTC 版)
懐帝が処刑されたことを聞いて、長安にいた懐帝の甥の司馬鄴(愍帝)は313年4月に即位して漢(前趙)に抵抗した。しかし長安も漢の劉曜により攻撃され、晋軍は抵抗するが連敗した。またこの愍帝の政権は、華北に残存していた西晋の残党により建てられた極めて脆弱な政権で、支配力は長安周辺にしか及ばない関中地域政権でしかなく、その長安は八王の乱で既に荒廃していたために統治力もなく、さらに西晋の諸王も援軍に現れなかったため、316年に長安が陥落して洛陽と同じく略奪殺戮の巷となり、愍帝は漢に降伏し、平陽に拉致された。こうして西晋は完全に滅亡した。愍帝は生かされたが、懐帝同様の扱いを受けた後の317年12月に漢の劉聡により殺された。ここに司馬昭・司馬炎からの西晋の皇統は断絶した。
※この「長安陥落と乱の終焉」の解説は、「永嘉の乱」の解説の一部です。
「長安陥落と乱の終焉」を含む「永嘉の乱」の記事については、「永嘉の乱」の概要を参照ください。
- 長安陥落と乱の終焉のページへのリンク