長安攻防とは? わかりやすく解説

長安攻防

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:41 UTC 版)

劉聡」の記事における「長安攻防」の解説

次に劉聡は、第二の都である長安攻略取り掛かった8月、平西将軍趙染安西将軍劉雅騎兵2万与え南陽王司のいる長安攻撃させた。さらに、劉粲劉曜大軍率いて後詰めとなった趙染潼関で晋軍を破り将軍呂毅を討ち取った。漢軍が下邽に至ると、司馬模趙染降伏した趙染司馬模劉粲のもとへ送った9月劉粲司馬模と子の范陽王司馬黎殺害し衛将軍長史繇・散騎常侍驁・辛謐・北宮純らを平陽送った劉聡劉粲司馬模殺害したことに大い怒った劉粲は「臣は、司馬模が自らの天命を知ることが遅かったために殺害したのです。奴は首都洛陽危機に際して命を懸けて戦わなかった。これは天下の悪であることから誅したまでです」と言った劉聡は「その通りではあるが、我は汝が降伏した者を誅殺したことで、もはや降伏しようと助からない思われることを恐れているのだ。それに、天道とは神に通じる者であり、我々に天命理解することなどできぬ」と諭した劉曜車騎大将軍開府儀同三司雍州牧に任じて中山王改封して長安を守らせた。また、王弥大将軍任じて公に封じた10月石勒王弥殺害してその軍を吸収し劉聡へは王弥反逆したため討伐したと上表した。劉聡激怒し使者派遣すると、石勒勝手に漢の重臣殺害したことで上意無視していると責めた。だが、石勒は既に河北において一大勢力築き上げており、劉聡は彼が離反することを大い恐れた。そのため、結局は石勒許し王弥の軍を統合することも認め、鎮東大将軍・監并幽二州諸軍事・領并州刺史任じた同月劉曜長安に入ると、晋の安定郡太守賈疋始め諸々氐族羌族皆人質を送ったが、雍州刺史麹特と新平郡太守竺恢だけは降伏しなかった。また、晋の従事中郎索綝護軍麹允頻陽県令粛も劉曜与するのを善しとせず、京兆南山から安定郡逃走図った途中、陰密で賈疋差し出した人質出会うと、彼らを連れて臨涇引き返した。彼らは賈疋に晋室復興協力するよう要請し平南将軍推挙すると、5万率いて長安攻撃した扶風郡太守綜および麹特・竺恢らもこれに呼応して10万率いて合流した劉曜劉雅趙染派遣して防がせたが、敗れて帰還した劉曜長安精鋭率いて諸将と共に黄丘で戦った大敗喫した。自らも流れ矢にあたり、甘渠まで退いた賈疋はさらに漢の涼州刺史彭蕩仲を攻撃して殺した。麹特は王禿・紀特らを新豊派遣して劉粲攻撃すると、劉粲平陽帰還した劉曜池陽を陥れ、1万余り攫うと、長安に籠った。 12月豫州刺史閻鼎らは晋の秦王司馬鄴皇太子奉り雍城に入ると関中の民は晋・胡族関係なく皆これに応じた

※この「長安攻防」の解説は、「劉聡」の解説の一部です。
「長安攻防」を含む「劉聡」の記事については、「劉聡」の概要を参照ください。

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