更なる拡大、ティムールの出現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 06:32 UTC 版)
「バヤズィト1世」の記事における「更なる拡大、ティムールの出現」の解説
1397年から2年以上にかけて行った第三次コンスタンティノープル包囲では、コンスタンティノープル内にトルコ人の居住区とモスクを設け、イスラムの法廷と法官(カーディー)を設置することを認めさせる。1400年にマヌエル2世が西欧諸国に援助を求めに出国するとバヤズィトは4度目の包囲を開始、1402年に至っても包囲は続けられた。バヤズィトはコンスタンティノープル包囲に際してボスポラス海峡のアジア側にアナドゥル・ヒサールを築城し、兵糧攻めに持ち込もうとするが、市域の広いコンスタンティノープルは籠城戦に耐え抜き、攻略に失敗した。後に即位した曾孫のメフメト2世はバヤズィトの包囲を教訓として、短期決戦によってコンスタンティノープルを陥落させる。メフメト2世のコンスタンティノープル攻略においては城塞アナドゥル・ヒサール(英語版)も活用され、城塞に配備された大砲で敵軍を牽制した。 バルカン半島での軍事活動と並行して、アナトリア方面の征服活動も依然として続けられていた。ニコポリスの戦勝に遡る1395年にはジャンダル侯国(英語版)(イスフェンディヤール侯国)が治めるアマスィヤとカスタモヌを占領、1398年にエルテナ侯国(英語版)の併合を達成する。ニコポリスの戦闘中にアラー・アッディーンがアナトリアのオスマン領を攻撃しており、バヤズィトは戦後アナトリアに渡り、コンヤに進軍した。11日に及ぶ攻城戦の末に1398年にコンヤを攻略、服従を拒んだアラー・アッディーンを処刑し、彼の2人の子をブルサに送り、カラマンを滅亡させる。1400年にエルズィンジャンを攻略、1402年にはオスマン帝国より脱走したヤクブ2世が再建したゲルミヤン侯国を再征服し、アナトリアの大部分を制圧する。 しかし、東方に大帝国を打ち立てたティムールがアナトリアに現れると、オスマン帝国を取り巻く情勢は一変する。1393年ごろにティムール朝とオスマン帝国の接触が始まり、当初ティムールからは両国の間に領域を策定しようという丁重な文面の書簡が送られたが、バヤズィトは好意的な反応を示さなかった。ムラト1世とバヤズィトに滅ぼされたベイリクの君主たちはティムールに助けを求め、彼の力を借りて勢力を再建しようとしていた。一方、ティムールに放逐された黒羊朝の君主カラ・ユースフ(英語版)はバヤズィトに保護され、彼の力を借りて勢力を再建しようとしていた。そのためにオスマンとティムールの両国関係は険悪なものとなり、ついに激突した。
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