更なる建築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/12/18 16:17 UTC 版)
「サン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城」の記事における「更なる建築」の解説
海賊の襲撃の恐怖は十分に根拠のあることだった。1662年には城塞はまだ建設中だったが、イギリスの海賊が襲来し、2週間にわたりサンティアゴ・デ・クーバを制圧した。その時には城塞も壊され、大砲も奪われた。彼らが去ったあと、スペイン政府は損壊箇所の再建と駐屯する兵の数を300人に引き上げた。1663年から1669年には、技師であったフアン・シスカラ・イバニェス(Juan Císcara Ibáñez)、フアン・シスカラ・ラミレス(Juan Císcara Ramirez)、フランシスコ・ペレス(Francisco Perez)が損壊箇所の修復を行い、さらに側面の補強や砲台の新設といった城塞の改良も行った。この甲斐もあってか、1678年にはフランスの小艦隊の攻撃を凌ぎ、1680年にはアンティル諸島のフィリバスターの副指揮官フランケスマ(Franquesma)に率いられた800人の攻撃も撃退した。 しかし、1675年から1692年の間に相次いだ地震によって、城塞は被害を受けており、1693年から1695年にかけてフランシスコ・ペレスの指揮下で修復工事が行われた。1738年から1740年には技師アントニオ・デ・アレドンド(Antonio de Arredondo)の指揮下で更なる工事が行われ、シタデルの拡大や未完に終わっていた砲台の完成などが達成された。この工事にはフアン・マルティン・セルメニョ(Juan Martín Cermeño)とフランシスコ・カルデリン(Francisco Calderín)も携わった。カルデリンらは1757年から1766年の地震で再び損壊した後に、建造物群の最終的な変更を手がけている。 1775年ころまでには攻撃される虞は減退したため、要塞は軍事拠点として利用され続けつつも、ロカ(la Roca,「岩」)とエストレリャ(la Estrella,「星」)と呼ばれていた2区画は政治犯収容用の監獄に転用された。しかし、米西戦争でスペイン海軍のパスクワル・セルベラ提督が本国艦隊を率いてサンティアゴ・デ・クーバに来航すると、アメリカ合衆国の艦隊と陸軍による要塞攻撃が始まり、再び全体が城塞として使われた。(要塞をめぐる戦いの中でサンチャゴ・デ・キューバ海戦が起きた)
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