異文化への理解と周囲の反発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 21:13 UTC 版)
「メフメト2世」の記事における「異文化への理解と周囲の反発」の解説
メフメトはアラビア語とペルシア語を解し、イタリア語とギリシア語の知識もいくらか持ち合わせていたと言われる。メフメトの宮廷ではニザーミーの『五部作(ハムサ)』、フェルドウスィーの『王の書(シャー・ナーメ)』、ラシードゥッディーンの『集史』が好んで読まれていた。ペルシア文学の他に、ティムール朝で書かれたチャガタイ語文学も人気を博していた。メフメトは詩人を保護するだけでなく、自らも「アウニ(アヴニ)」の筆名で作詩を行い、オスマン語による77編の詩集『ファーティフ・ディーワーニ』を著した。 また、メフメトは中国やウイグルの流れを汲む中央アジア世界の絵画も閲覧していたと思われる。 メフメトはイタリアなどから知識人を招聘し、ギリシャ語の文献を収集する、ヨーロッパ文明にも関心を持つ人物だった。コンスタンティノープル攻略後、メフメトは歴史家クリトヴォロスを初めとする東ローマの学者たちを厚遇する。彼がイタリアから招聘した画家ジェンティーレ・ベリーニは16か月の間イスタンブールの宮廷に滞在し、メフメトの肖像画などの作品を残した。イタリアの人文主義者、芸術家たちは、メフメトが学芸の保護者であるという評判を聞き、イスタンブールの宮廷を訪れたいと願っていた。しかし、メフメトがイタリアの人文主義者たちを保護した目的の1つには、イタリアの政治・軍事情報の獲得があったとも考えられている。 一方で宮廷でペルシア人、イタリア人、ユダヤ人が重用されていたことに、トルコ人の間では不満が起きていた。メフメトが没する数年前から、アマスィヤの知事を務めていたメフメトの長子バヤズィトの周りにはメフメトの政策に反対する派閥ができていた。メフメトとバヤズィトの関係は悪化し、メフメトはバヤズィトの宮殿を監視していたが、派閥の形成は抑止できなかった。 メフメトの崩御後、彼が保管していた絵画は、皇帝に即位したバヤズィトによって破壊・売却される。
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