672年と673年の遠征
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「コンスタンティノープル包囲戦 (674年-678年)」の記事における「672年と673年の遠征」の解説
669年の戦役は、ウマイヤ朝軍にコンスタンティノープルへ直接侵攻できる能力があることを証明すると同時に、その完遂のためには周辺に補給基地を確保することが不可欠であることも示した。その場所として、ファダーラの艦隊が670年と671年の遠征の際に冬営地として使用したマルマラ海南岸のキュジコス半島が選定された。ここに至り、ムアーウィヤはコンスタンティノープル攻略のための本格的な遠征軍の編成に取り掛かった。669年のヤズィードの遠征の時とは異なり、今度は海岸沿いを進軍してコンスタンティノープルを目指すことになった。慎重かつ段階的に侵攻を進め、海岸沿いの拠点を確保していったウマイヤ軍は、最終的にキュジコスの制圧に成功した。これによりコンスタンティノープルは海陸両側から包囲され、後背の穀倉地帯からの食料補給もたたれることになった。 672年、シリアとエーゲ海の間の基地を結びシーレーンを構築するべく、3つの大艦隊が派遣された。ムハンマド・イブン・アブドゥッラーの艦隊はスミルナで冬を越し、カイスという人物(おそらくアブドゥッラー・イブン・カイスのこと)率いる艦隊はリュキアとキリキアで越冬、最後のハリド率いる艦隊は後からカイス艦隊に合流した。証聖者テオファネスによれば、ウマイヤ艦隊の接近を知った皇帝コンスタンティノス4世 (在位: 661年–685年)は、戦争に向け自らの艦隊の準備を始めた。その中には、新兵器「ギリシアの火」を使うための管を装備したものもあった。673年、新たにグナダ・イブン・アブー・ウマイヤ率いるウマイヤ艦隊が出発し、キリキアのタルススとロドス島を占領した。シリアとコンスタンティノープルの中間に位置するロドス島は、ウマイヤ朝によるコンスタンティノープル遠征の前線補給基地、また周辺の沿岸諸都市への襲撃の拠点へと作り替えられた。1万2000人の守備隊はシリアへ帰還し、代わりに島の防衛と周辺への襲撃のための小艦隊がやってきた。アラブ人は島に小麦を植え、放牧のための家畜を連れてきさえした。東ローマ海軍はウマイヤ海軍のエジプト攻撃を妨害しようとしたが、失敗した。この間にもアナトリア半島の陸上でのウマイヤ軍の進撃は続き、東ローマ帝国領内でウマイヤ軍が越冬する事態となった。
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