672年と673年の遠征とは? わかりやすく解説

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672年と673年の遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 15:39 UTC 版)

コンスタンティノープル包囲戦 (674年-678年)」の記事における「672年と673年の遠征」の解説

669年戦役は、ウマイヤ朝軍にコンスタンティノープルへ直接侵攻できる能力があることを証明する同時に、その完遂のためには周辺補給基地確保することが不可欠であることも示したその場所として、ファダーラの艦隊670年671年遠征の際に冬営地として使用したマルマラ海南岸キュジコス半島選定された。ここに至りムアーウィヤコンスタンティノープル攻略のための本格的な遠征軍編成取り掛かった669年ヤズィード遠征の時とは異なり今度海岸沿いを進軍しコンスタンティノープル目指すことになった。慎重かつ段階的に侵攻進め海岸沿いの拠点確保していったウマイヤ軍は、最終的にキュジコス制圧成功した。これによりコンスタンティノープル海陸両側から包囲され後背穀倉地帯からの食料補給もたたれることになった672年シリアエーゲ海の間の基地を結びシーレーン構築するべく、3つの大艦隊が派遣された。ムハンマド・イブン・アブドゥッラー艦隊スミルナで冬を越しカイスという人物(おそらくアブドゥッラー・イブン・カイスのこと)率い艦隊リュキアキリキア越冬最後ハリド率い艦隊は後からカイス艦隊合流した証聖者テオファネスによればウマイヤ艦隊接近知った皇帝コンスタンティノス4世 (在位: 661年685年)は、戦争に向け自らの艦隊準備始めた。その中には新兵器ギリシアの火」を使うための管を装備したものもあった。673年新たにグナダ・イブン・アブー・ウマイヤ率いウマイヤ艦隊出発しキリキアタルススロドス島占領したシリアコンスタンティノープル中間位置するロドス島は、ウマイヤ朝によるコンスタンティノープル遠征前線補給基地、また周辺沿岸都市への襲撃拠点へと作り替えられた。1万2000人の守備隊シリア帰還し代わりに島の防衛周辺への襲撃のための小艦隊がやってきた。アラブ人は島に小麦植え放牧のための家畜連れてきさえした。東ローマ海軍ウマイヤ海軍エジプト攻撃妨害しようとしたが、失敗したこの間にもアナトリア半島陸上でのウマイヤ軍の進撃続き東ローマ帝国領内ウマイヤ軍が越冬する事態となった

※この「672年と673年の遠征」の解説は、「コンスタンティノープル包囲戦 (674年-678年)」の解説の一部です。
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