674年から678年のコンスタンティノープル攻撃と関連戦役
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「コンスタンティノープル包囲戦 (674年-678年)」の記事における「674年から678年のコンスタンティノープル攻撃と関連戦役」の解説
674年、ウマイヤ艦隊が東エーゲ海の拠点を出発し、マルマラ海に入った。証聖者テオファネスによれば、彼らは4月にトラキアのヘブドモン付近の海岸に上陸し、9月まで東ローマ軍と衝突を繰り返した。テオファネスによれば、「毎日、朝から晩まで、黄金の門の外からキクロビオンの間で押し合いへし合いが繰り返された」。その後ウマイヤ軍はキュジコスへ撤退し、冬を越すためにここを駐屯地として要塞化した。この流れは674年まで続く包囲戦の間繰り返された。毎春ウマイヤ軍はマルマラ海を渡ってコンスタンティノープルを攻撃し、冬になるとキュジコスへ撤退したのである。「包囲戦」といっても、実のところこの戦役はコンスタンティノープル周辺で展開された数々の戦闘の総称といってよく、そう考えれば669年のヤズィードの遠征も一部に含めて考えることができる。東ローマとアラブ双方の歴史家たちは、包囲戦の期間を「5年間」ではなく「7年間」と記録している。といってもその示す範囲は一定ではなく、672年から673年の戦役を含める場合もあれば、ウマイヤ軍が前線基地から完全に撤退した680年までを含める考え方もある。 コンスタンティノープル周辺で行われた戦闘の詳細はよくわかっていない。テオファネスは5年間の包囲戦を凝縮して記述しているし、アラブ側の文献は包囲戦そのものについて一切記述を残さず、単に東ローマ帝国領内での遠征にかかわった将軍たちの名を伝えているだけだからである。アラブ側の文献でわかることといえば、アブドゥッラー・イブン・カイスとファダーラ・イブン・ウバイドがクレタを襲撃してそこで675年に越冬したこと、同年にマリク・イブン・アブドゥッラーがアナトリア半島への遠征を率いたことくらいである。後世のアラブの歴史家ヤアクービーやタバリーによれば、676年にムアーウィヤがコンスタンティノープル包囲軍への援軍としてヤズィードを派遣し、また677年にはアブドゥッラー・イブン・カイスが遠征をおこなったというが、その標的は不明である。 東ローマ帝国が首都防衛に没頭するあまり、そのほかの領土では迫りくる他国の脅威への対応がおろそかになっていた。イタリアではランゴバルド人が帝国の危機に乗じてタレントゥムとブルンディシウムを含むカラブリアのほぼ全域を征服した。バルカン半島ではスラヴ人が676年から678年にかけてテッサロニキを包囲し、海にも乗り出して帝国の海岸線を襲い、マルマラ海まで進出することすらあった。 最終的に、677年秋もしくは678年初頭に、コンスタンティノス4世がウマイヤ軍に正面から決戦を挑んだ。彼の艦隊は新兵器のギリシアの火を使い、ウマイヤ艦隊を壊滅させた。アラブの年代記者が記録しているヤズィード・イブン・シャガラ提督の死は、この海戦によるものである可能性がある。同じころアナトリア半島でも、 スフヤーン・イブン・アウフ率いるウマイヤ軍がPhloros、Petron、Cypriantといった東ローマ帝国の将軍たちに敗れ、テオファネスによれば3万人のウマイヤ兵が死んだという。こうした敗北の結果、ウマイヤ軍は678年にコンスタンティノープル包囲を断念せざるを得なくなった。シリアに帰る途上、ウマイヤ海軍はスィリリョン沖で嵐に見舞われ、ほぼ全滅した。 証聖者テオファネスの年代記における概説的な記述は、この包囲戦について知るうえで不可欠である。しかしその内容の裏付けになるような文献は、同時代に近い、第二次アラブ包囲戦(717年-718年)以前にテオドシオス・グラマティコスという人物が書いた戦勝を祝う詩しか無い。テオドシオスの詩は、コンスタンティノープルの城壁の前での海戦における決定的な勝利を描いたものだが、興味深いことにウマイヤ海軍側にも火を噴く船があったとしている。「彼らの帰ってくる影への恐怖」という文言は、毎春キュジコスの基地からやってくるウマイヤ海軍のことをうたったものだと解釈できる。
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