大北方戦争以降
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「サンクトペテルブルクの歴史(英語版)」および「レニングラード包囲戦」も参照 1700年から1721年までの大北方戦争に勝利したことで、ロシアはフィンランド湾東部を奪回した。1703年5月16日、ニエンの近く、同じくネヴァ川の河口でサンクトペテルブルクが創建され、1712年にはロシアの首都にもなった。サンクトペテルブルクをスウェーデン艦隊の攻撃から守るべく、1704年5月にはコトリン島近くで人工島が作られ、そこでクロンシュロット(ドイツ語版)要塞が築かれた。1705年までにさらに5要塞が築かれ、クロンシュタット市を形成した。これらの要塞は同時代の人々に「ロシアのダーダネルス海峡」と呼ばれ、フィンランド湾の制海権を得るために設計されたものだった。 1710年、フィンランド湾南岸でペテルゴフとオラニエンバウムが創設された。1714年7月27日、ハンコ半島近くで行われたハンゲの海戦においてロシア海軍がスウェーデン艦隊に大勝した。大北方戦争は1721年のニスタット条約により終結、ロシアはネヴァ川沿岸とフィンランド湾両岸の領地、エストランド、スウェーデン領リヴォニア(英語版)、そしてヴィボルグを含むカレリア地峡西部を得た。しかし、フィンランドはスウェーデンに返還された。ロシア・スウェーデン間の戦争は1788年から1790年までのグスタフ3世のロシア戦争で再開、1788年7月6日にはゴーグラント島近くでフーグランド島の海戦(英語版)が起こった。この戦闘も戦争も決着がつけられることはなく、結果的には領土変更なしとなった。なお、この戦争ではスヴェンスクスンドの海戦(英語版)という戦闘が起こったが、こちらは「フィンランド湾の海戦」と呼ばれることもある。 次のロシア・スウェーデン戦争は1808年から1809年までのフィンランド戦争である。戦争の結果はフレデリクスハムンの和約によりフィンランドとオーランド諸島がロシアに割譲された。1809年に新しく成立したフィンランド大公国はロシア帝国の枠内で大幅な自治を得、西カレリアがフィンランドに返還された。1917年12月6日、フィンランド議会はフィンランド独立宣言を採択した。1939年から1940年までの冬戦争により西カレリアがソビエト連邦に併合された。 一方、エストニアは1918年2月24日に独立を宣言、エストニア独立戦争(英語版)を戦った。エストニア共和国は1940年まで存続した後、ソビエト連邦に併合された。1991年にソビエト連邦が崩壊すると、エストニアが独立を回復した。 ハンゲの海戦 フーグランド島の海戦(英語版)ルイ・ジャン・デプレ(英語版)作。 ヴィボルグ湾の海戦(英語版)イヴァン・アイヴァゾフスキー作、1846年。 1939年11月30日、ソビエト連邦がフィンランドとの間の不可侵条約を破棄して冬戦争を始めると、ソ連軍は湾内のセイスカリ島などに上陸を開始、フィンランドは領土を失った。 さらに第二次世界大戦を通じてフィンランド湾ではいくつかの大規模な海戦が起こった。1941年8月、ソビエト連邦のタリン撤退(英語版)において、ソ連のバルト海艦隊がタリンからクロンシュタットへ撤退しようとしたが、ドイツ軍に駆逐艦5隻、潜水艦2隻、警備艦3隻、掃海艦2隻、砲艦2隻、高速魚雷艇1隻、そして輸送船と支援船43隻を沈められるという大損害を被った。沈没船のうち数隻はまだユミンダ岬(ドイツ語版)の近く、フィンランド湾の海底に残っており、ユミンダ岬にはこの海戦の死者の記念碑が立てられている。 1978年、サンクトペテルブルクを洪水(英語版)から守るためのサンクトペテルブルク・ダム建設が始まったが、工事が6割まで進んだ段階となった1980年代末期にソ連崩壊と関連した財政の問題により工事が停止した。工事はその後、2001年に再開され、2011年8月までに完了した。
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