大北と少北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 01:45 UTC 版)
1606年、正妃の仁穆王后が永昌大君を産むと、北人派の中で、世子として光海君を推すベテラン官僚(老壮)中心の大北と、永昌大君を推す若手官僚(少壮)中心の小北の2つの党派が対立した。しかし1608年、宣祖が世子を決める前に亡くなると、大北の働きかけもあり、幼い永昌大君よりも実績・年齢ともに申し分の無い光海君を王位につけるという現実的な選択が正妃によってなされ、光海君が即位した。 光海君が即位すると大北が政権を握り、小北派を一掃するために永昌大君や綾昌大君(朝鮮語版)(定遠君の三男にして仁祖の実弟)を謀殺し、他の党派(西人、南人、小北)を追放、以後20年間に渡って朝廷を支配した。しかし大北はさらに骨北、肉北、中北の3つの派閥に分かれ、党争は終わることなく続いた。 1623年3月13日、綾陽君(仁祖)を擁護する西人派を中心とする宮廷クーデターが起き(仁祖反正)、光海君が廃位・追放されると、西人が政権を握り、李爾瞻・鄭仁弘(朝鮮語版)ら大北派の数十名が処刑され数百名が配流されて、ここに大北派は政治の舞台からほぼ姿を消した。これ以後は南人と西人の間で政争が行われることになる。なお、小北は少数勢力としては残り、英祖の蕩平政治の時に一時的に復権した(濁小北、清小北)ものの、それ以外は政治の表舞台に立つことはなかった。
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