大化の改新期の国博士
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『日本書紀』によると、皇極天皇4年6月(645年)、蘇我本宗家の滅亡後、孝徳天皇践祚・中大兄皇子任皇太子の日に沙門(のりのし)旻法師と高向史玄理が任命された官職で、左右大臣・内臣とともに設置されている。2名は遣唐使として入唐し、大陸で学んでいる。唐から輸入した新制度・政策を立案し、推進する目的で設置され、政治顧問として国政全般の諮問に応える職であったと推定される。 臨時的な職とみられ、大化5年2月(649年)には、 博士(はかせ)高向玄理(たかむくのぐゑんり)と釈僧(ほふしそう)旻(みん)とに詔して,八省(やつのすぶるつかさ)百官(もものつかさ)を置かしむ とあり、これを最後に,この官名は史書には現れなくなっている。
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