大化の改新と即位とは? わかりやすく解説

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大化の改新と即位

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 05:21 UTC 版)

天智天皇」の記事における「大化の改新と即位」の解説

舒明天皇第二皇子。母は皇極天皇重祚して斉明天皇)。皇后異母兄古人大兄皇子の娘の倭姫王。ただし皇后との間に皇子女はない。 645年7月10日皇極天皇4年6月12日)、中大兄皇子中臣鎌足らと謀り皇極天皇御前蘇我入鹿暗殺するクーデター起こす乙巳の変)。入鹿の父の蘇我蝦夷翌日自害した。更にその翌日皇極天皇同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分皇太子となり中心人物として様々な改革大化の改新)を行なった。また有間皇子など、有力な勢力に対して種々の手段用いて一掃した百済660年滅ぼされたため、朝廷滞在していた百済王子の扶余豊璋送り返し百済復興図って663年白村江の戦い起こす敗戦した。百済救援指揮するために斉明天皇と共に筑紫の朝倉宮に滞在したが、661年8月24日斉明天皇7年7月24日斉明天皇崩御した。 その後長い間皇位に即かず皇太子のまま称制した(天智天皇元年)。663年8月28日天智天皇2年7月20日)に白村江の戦い大敗喫した後、唐に遣唐使派遣する一方で667年4月17日天智天皇6年3月19日)に近江大津宮現在の大津市)へ遷都し、668年2月20日天智天皇7年1月3日)、ようやく即位した668年4月10日天智天皇2月23日)には、同母弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。しかし、671年1月2日天智天皇9年11月16日)に第一皇子大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、671年11月23日天智天皇10年10月17日)に大海人皇子皇太弟辞退したので代わりに大友皇子皇太子とした。 白村江の戦い以後は、国土防衛政策一環として水城烽火防人設置したまた、冠位それまで十九階から二十六階拡大するなど、行政機構整備行っている。即位後(670年)には、日本最古全国的な戸籍庚午年籍」を作成し公地公民制導入されるための土台築いていった。 中大兄皇子時代660年斉明天皇6年)に漏刻ろうこく水時計のこと)を作り671年天智天皇10年)には大津宮新台置いて鐘鼓打って時報開始したとされる671年での日付4月25日)に対応するグレゴリオ暦ユリウス暦ではないことに注意)の6月10日時の記念日として知られている。

※この「大化の改新と即位」の解説は、「天智天皇」の解説の一部です。
「大化の改新と即位」を含む「天智天皇」の記事については、「天智天皇」の概要を参照ください。

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