大化の改新から摂関政治まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:28 UTC 版)
天皇を中心とした国家の枠組みが整い始めたのは、大化の改新からさらに4半世紀経った天武朝以後である。大化の改新によって後の天智天皇である中大兄皇子が実権を握って以降、中国(唐)の法令体系である律令を導入した結果、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。それらの試みは様々な曲折により一気に進展はしなかったが、最終的には、天武天皇及びその後継者によって完結することとなった。特に天武天皇は、軍事力により皇位を奪取したことを背景として、絶対的な権力を行使した。この時代に詠まれた柿本人麻呂らの和歌には、「大君は神にしませば」と天皇を神とする表現が見られている。 律令制下で天皇は太政官組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。 しかし、平安時代初期の9世紀中後期頃から、藤原北家が天皇の行為を代理・代行する摂政・関白に就任するようになった。特に天安2年(858年)に即位した清和天皇はわずか9歳で、これほど低年齢の天皇はそれまでに例がない。このような幼帝の即位は、天皇が次第に実権を失っていたことを示すもので、こうした政治体制を摂関政治という。 摂関政治の成立の背景には、国内外の脅威がなくなったことにともなって政治運営が安定化し、政治の中心が儀式運営や人事などへ移行していったことにある。そのため、藤原北家(摂関家)が天皇の統治権を代行することが可能となったと考えられる。また、摂関家の権力の源泉としては、摂関家が天皇の外祖父(母方の祖父)としての地位を確保し続けたことにあるとされている。 もっとも、このような一連の現象は、逆に言えば、天皇という地位が制度的に安定し、他の勢力からその存立を脅かされる可能性が薄らいだことの反映でもある。この頃、関東では桓武天皇5代の皇胤平将門が親族間の内紛を抑え、近隣諸国の紛争に介入したところ、在地の国司と対立、やがて叛乱を起こして自ら「新皇」(新天皇)と名乗ったといわれ、朝廷の任命した国司を追放し、関東7か国と伊豆に自分の国司を任命した(平将門の乱)。 これは、平将門による新国家の樹立とも言えるが、将門は京都の天皇(当時は朱雀天皇)を「本皇」と呼ぶなど、天皇の権威を完全に否定したわけではなかった。また、将門の叛乱自体も、関東の武士たちの支持を得られず、わずか3か月で将門が戦死して新政権は崩壊した。
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