平和な時代の守備隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 05:28 UTC 版)
八旗の軍は民族系統によって大きく満洲八旗と蒙古八旗に分けられていた。しかし、満洲八旗の民族構成は、満州人の主人の家庭に満州人以外の下僕が登録されるにつれて、とても満州人のみとは言い難くなっていったことは指摘しておかねばならない。明との戦争が進展し、満州人支配下の漢人の人口が増加するのに合わせて、ホンタイジは漢軍八旗を作り、この新しい人材供給源を取り込もうとした。しかしながら朝廷は、これら漢人の旗人を満洲や蒙古と同等とは決してみなさなかった。なぜなら、彼ら漢人は満州人の支配に服したのが相対的に遅かったことに加え、その民族系統も漢人という異民族だったからである。また、漢人の兵種は主に歩兵、砲兵、工兵であったが、このことも、ほぼ全員が弓騎兵である満州人の伝統からみれば異質で馴染みにくかった。更に、明の征服後は、漢人の旗人が担っていた軍事的役割はすぐに緑営に吸収されてしまい、皇帝と占領地の漢人との仲立ちをするという官僚的役割も漢人の科挙官僚の総督、巡撫といった役職への任用の増加や満洲人の漢語習得・漢文化吸収が進んだため重要度が低下し、乾隆帝時代には旗人の人口増加に伴う八旗の生活困窮と国庫の財政負担の増加が大きな問題となり、漢軍旗人を民間籍に移す「漢軍出旗」が行われた。 八旗は社会的・軍事的な機能を併せ持つ団体であったため、その性質上、八旗の諸隊に属する人口は世襲制で硬直していた。皇帝の勅令による特別の裁可がある場合に限り、旗どうしの間での社会的移動が許された。それに対して、緑営は当初から職業軍隊となるよう構想されていた。 明軍の残党を掃討した後、満洲八旗は兵力約20万人ほどであったが、このときに半分に分割された。半分は「禁旅八旗」として北京に駐屯し、首都の防衛とともに、清朝の主力打撃部隊としての役割を担った。残りの半分は「駐防八旗」として国内主要都市に分かれて駐屯した。 満洲人による清の朝廷は、自らが少数民族であることを強く自覚しており、漢人の中に埋没することを恐れた結果、満洲人・モンゴル人と漢人の間の人種差別政策を強力に進めた。この政策は八旗の駐屯軍にも直接的に反映されており、市内で八旗が駐屯する地域は壁で囲まれる場合が多かった。青州のように市域が狭小で市内に駐屯地を確保できなかった場合には、八旗とその家族を収容するために新たに要塞都市を建設した。帝都北京では摂政ドルゴンが漢人全員を市外南郊の「外城」と呼ばれる地域に強制移住させた。北部の城壁で囲まれた市域は「内城」と呼ばれ、そこは市内に残った満洲八旗で分配し、それぞれの旗が紫禁城を取り囲む内城の各区画の警備の責任を負った [要出典]。
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