禁旅八旗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 08:25 UTC 版)
禁旅八旗は、清が長城以南に入関した後、首都となった北京を警備するために北京城に移住させた八旗のことで、清朝皇帝の近衛兵である。 順治帝時代、禁旅八旗には、驍騎営(aliha coohai kūwaran)、前鋒営(gabsihiyan i kūwaran)、護軍営(bayara i kūwaran)、歩兵営が設けられ、各々驍騎(馬甲、馬兵とも称する)、前鋒、護軍、親軍(gocika bayara)及び歩兵(yafahan cooha)を統括した。その後、火器営(tuwa i agūra i kūwaran)、健鋭営(silin dacungga kūwaran)、内府三旗護軍営(booi ilan gūsai bayara i kūwaran)、前鋒営、驍騎営、円明園八旗護軍営、三旗虎槍営等も設置された。 前鋒、護軍、驍騎、親軍、歩兵は、八旗佐領の下から選抜され、人数は、時代によって変化している。乾隆帝時代、驍騎3万4000、護軍1万5000、前鋒1700、歩軍2万1000、親軍1700、健鋭兵2000、火器営兵6000、虎槍営兵600、及び藤牌兵(kalkangga cooha)等、計約9万人がいた。 これ以外に領侍衛府が設置され、領侍衛内大臣6人、内大臣6人が置かれ、上三旗の一等、二等、三等満洲蒙古侍衛570人、藍翎侍衛(lamun funggala)90人、四等待衛(duici jergi i hiya)、御前侍衛(gocika hiya)、乾清門侍衛(kiyan cing men i hiya)、漢侍衛若干名、計1800人余りを管轄した。紫禁城の警備に関しては、領侍衛府の責任が最も重く、地位も最高で、宮殿の宿衛と巡幸等の諸事を総括した。紫禁城内の各門、各宮殿には、領侍衛内大臣(hiya kadalara dorgi amban)が侍衛、親軍、上三旗、内府三旗前鋒、護軍、驍騎宿衛を派遣した。 紫禁城外の周囲は、下五旗護軍が守衛した。紫禁城外から皇城以内は、満洲八旗歩軍が守衛し、皇城外から大城以内は、満洲、蒙古、漢軍八旗歩軍が守衛した。大城外は、五城巡捕営からの1万の緑営兵が守衛、巡邏した。
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