平和と新たな興隆(1661年 - 1688年)
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「ダルムシュタットの歴史」の記事における「平和と新たな興隆(1661年 - 1688年)」の解説
1661年からのルートヴィヒ6世の治世には、平和なだけでなく経済発展も戻ってきた。建設工事は再び増加し、豊かさが広がった。ゲオルク2世が1659年にライン同盟に加盟したことでもたらされた緊張は、ダルムシュタットの防衛施設の改良が必要であることを明らかにした。そこでルートヴィヒ6世は星形の防塁施設でダルムシュタットを囲う計画を策定した。最終的には都市防衛の小規模な改良だけが行われた。 ルートヴィヒ6世は、彼の前任者が始めた領主特権の拡大を継続した。ツェント裁判所のほぼ完全な無力化は市行政当局の権利を著しく制限した。さらに重要と考えられるのが、市参事の選挙における方伯の選択権を制定したことである。方伯は市参事会議員選挙において候補者を容認するかどうか選ぶことができた。これには、参事会議員同士の選挙は無駄になる場合があるということを意味する。さらに後に市参事会議員選挙時の候補者推薦権を設けたことで、方伯は事実上市参事会を完全に掌中に収めたのである。 ルートヴィヒ6世は1678年4月24日に亡くなった。息子で後継者となったルートヴィヒ7世はわずか数ヶ月後に赤痢に感染し亡くなった。このため最も身近な親族(異母弟)で当時10歳だったエルンスト・ルートヴィヒが、母親エリーザベト・ドロテア・フォン・ザクセン=コーブルクの後見下で統治を行った。彼女は、夫の遺志を継いで積極的に都市の発展を図った。
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