平和な治世とイギリスの侵略完了
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「バハードゥル・シャー2世」の記事における「平和な治世とイギリスの侵略完了」の解説
バハードゥル・シャー2世はその治世下、父アクバル2世と同様に、宮廷儀礼やデリーを練り歩く大行列をよく行った。彼はまた凧揚げと、そして父の時代より宮廷で流行したウルドゥー詩にも熱中し、その学者でもあった。 バハードゥル・シャー2世は当時傑出していた詩人として知られるガーリブ、ダーグ、ムーミン、ゾークなどを宮廷詩人として雇った。1847年以降雇ったガーリブはその中でも特に傑出しており、彼はバハードゥル・シャー2世の治世に多くの素晴らしい詩を残した。ただ、ガーリブはバハードゥル・シャー2世の詩の文体は簡単に真似ることができるものとして、その詩作をあまり評価していなかったといわれる。 一方、ムガル帝国を保護しつつインドを侵略していたイギリスは、そのインド植民地化が最終局面を迎えようとしていた。1845年から1849年かけて行われた2次にわたるシク戦争で、イギリスはシク教徒のシク王国に勝利し、パンジャーブなど北西インドを併合して、全インドの植民地化を完成した。 ムガル帝国も例外ではなく、1854年にイギリスのインド総督、ダルハウジー侯爵ジェイムズ・ラムゼイはバハードゥル・シャー2世の死後、その後継者は皇帝ではなく藩王として扱い、ムガル帝国を藩王国とすることを決定した。だが、ラムゼイのこの計画は本国政府の反対で挫折した。 このように、イギリスは反抗的な勢力をインドから一掃するとともに、ムガル帝国の名目的主権さえ奪おうとしたが、その前にイギリスによるインド支配に対する人々の不満が高まりつつあった。この頃、イギリスの長年の統治に対し、農民、商工業者、シパーヒー(インド人の兵士)、宗教関係者、知識人、旧支配層らは憤慨し、鬱積していた。ことに、1856年2月のアワド藩王国の理不尽な併合によって、それは頂点を極めた。
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