平和とワーテルロー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 02:08 UTC 版)
「シドニー・スミス (軍人)」の記事における「平和とワーテルロー」の解説
スミスは奴隷制に反対する行動を起こした。バーバリ海賊は数世紀にわたって、北アフリカの数多くの港を起点に行動していた。彼らは捕らえた水夫を奴隷にしたばかりでなく、イングランドやアイルランドを含むヨーロッパ沿岸を襲って人々を誘拐した。スミスは、奴隷誘拐の実行を終わらせるために、ウィーン会議に出席して資金募集と軍事行動を訴えた。1815年3月、ナポレオンはエルバ島を脱出し、自らに忠実な軍隊を集めつつ、フランス皇帝に復帰するためにパリに進軍した。スミスはイングランドに戻っていたために、6月までにブリュッセルに到着するのがやっとだった。大きな戦いの砲声を聞きつつウェリントン公に会いに行ったスミスは、わずかの差で間に合わなかったことを知った。彼が到着したその日、ワーテルローの戦いは終ったのであった。スミスは、多くの負傷した両軍の兵士を集めて治療させる準備を始めた。それからアラスとアミアンでフランス守備軍の降伏を受け入れ、連合軍が無血でパリに入ることができるようにした。それはフランス国王ルイ18世の首都帰還の安全を確保することに他ならなかった。これらの貢献に他の功績も加えて、スミスはついにイギリスのバス勲爵士(KCB)に叙せられた。彼はもはや単なる「スウェーデンの騎士」ではなくなった。 スミスは外交活動の費用としての莫大な負債を抱えたが、イギリス政府はなかなかそれを補填しようとはしなかった。しかしスミスは相変わらず上流の生活をやめようとせず、また奴隷売買打倒への賛同を募る活動はさらに多くの資金を必要とした。当時イギリスでは、債務者は負債が支払われるまで収監されることがあったので、スミスは家族をフランスへ伴ってパリに住んでいた。やがてようやく政府が彼の借金を弁済し、年金を増やしたので、それなりの生活を送れるようになった。海上勤務に対する度重なる請願にもかかわらず、彼は二度とその命令を受けることはなかった。スミスは脳卒中で1840年5月26日に死亡した。彼の亡骸は妻とともにペール・ラシェーズ墓地に眠っている。 先代: ヘンリー・タフトンサー・リチャード・キング ロチェスター区下院議員(共選) ジェームズ・ハルクス 1802 - 1806 次代: ジョン・カルクラフトジェームズ・バーネット
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