ドイツとウクライナとは? わかりやすく解説

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ドイツとウクライナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/14 14:30 UTC 版)

ミハイル・パーヴロヴィチ・サーブリン」の記事における「ドイツとウクライナ」の解説

1918年4月18日には、ペトロー・ボルボチャーン大佐指揮されウクライナ人民共和国軍タヴリダ・ソビエト社会主義共和国への攻撃[クリミア作戦ロシア語版)]を開始した4月22日にはタヴリダ・ソビエト社会主義共和国首都シンフェロポリドイツ帝国軍奪還され、残すはセヴァストーポリばかりとなった迫り来るドイツ軍による攻撃避けるため、黒海艦隊司令官サーブリンは「すべての船舶クリミア半島にある港湾施設は、ウクライナ人民共和国管轄下にあり。よって、必要箇所についてはすべて、ウクライナ国旗掲揚すべし」とする宣言発した一方ウクライナから退却するボリシェヴィキは、艦船ノヴォロシースク回航すべしという要求出した当時ノヴォロシースクにはボリシェヴィキ建てたクバーニ・ソヴィエト共和国存在していた。ボリシェヴィキ要求同時に黒海艦隊ウクライナ人組織司令部対し艦船クリミアを去ることがないよう要望した。サーブリンは、艦隊セヴァストーポリにとどめ、やがて来るウクライナ人民共和国政府の代表を迎えることにした。その後黒海艦隊赤軍部隊は各戦線壊滅した4月25日には、ボリシェヴィキは「革命の旗を降ろしてならない」とする声明発表した一方ウクライナ軍同盟してクリミア侵攻するドイツ帝国軍は、サーブリンを交渉相手として指名した4月29日には、全艦隊会議戦列艦ヴォーリャ艦上開かれた。そこで各艦の代表者たちの大半は、全艦船港湾ウクライナ国旗掲揚すること、艦隊管理者にサーブリンを選出することを採択した。サーブリンは、艦隊自分命令にきちんと従うことを条件にこの申し出承諾した。しかし、水雷戦隊抗議の印として会議出席せず、サーブリンに対してノヴォロシースクへの出港許可要求した。サーブリンは水雷戦隊出港を邪魔はしないが、深夜12時までに港は閉鎖されるであろうから、それまで出港するよう助言した4月29日15時00分、サーブリン艦隊司令官は「ウクライナ黒海艦隊指揮着任する」という信号司令部艦「ゲオルギー・ポベドノーセツ」から発信した16時00分には、サーブリン司令官は「艦隊ウクライナ国旗掲揚せよ」とする命令を「ゲオルギー・ポベドノーセツ」のラジオステーションから発信した。そして、キエフウクライナ中央ラーダへ「本日セヴァストーポリ要塞およびセヴァストーポリにあった艦隊は、ウクライナ国旗掲揚した。艦隊指揮にサーブリン提督着手した」という電報打った。これを受けて黒海艦隊艦船大半ウクライナ人民共和国の旗を掲げた23時30分頃、水雷戦隊セヴァストーポリ出港した。それに対し戦列艦ヴォーリャ」と「スヴォボードナヤ・ロシア」が威嚇射撃行い水雷戦隊魚雷攻撃戦闘準備脅しでこれに応じた結局、「プロンジーテリヌイ」、「ケルチ」、「カリアークリヤ」以下14 隻の艦隊水雷艇、4 隻の輸送船、数隻の小型高速艇ノヴォロシースク向けて出港したその後、サーブリンはドイツ軍との交渉のためにドイツ軍司令部ならびに中央ラーダ軍司令部電報打った深夜12時近くフェオドシヤからは代表団出発した。 しかし、ここで艦隊ウクライナ側へ渡ることに関して同盟国のあいだで問題生じたドイツ司令部は、ウクライナ中央ラーダクリミア放棄するという、ドイツおよびオーストリアハンガリーとのあいだに交わされ和平署名付帯条件立脚しクリミアからウクライナ人民共和国軍撤収させる決定をした。その結果、ボルボチャーン大佐麾下クリミア集団半島から撤退余儀なくされた。ドイツ軍は、単独セヴァストーポリ攻略開始した。 同じ日、ウクライナ人民共和国首都キエフではヘーチマンの政変起こって中央ラーダ政府崩壊しウクライナ人民共和国変わってウクライナ国成立したドイツウクライナ国同盟したため、ウクライナ人民共和国への所属宣言した黒海艦隊はすぐに「敵」となることになってしまった。 翌30日になると、すでにドイツ軍一部部隊セヴァストーポリへ姿を見せ始めていた。一方遅ればせながらセヴァストーポリ到着した代表団は、ドイツ軍司令官ローベルト・コーシュ(ドイツ語版将軍セヴァストーポリ占領黒海艦隊自治権引渡し断念することはあり得ず艦隊武装解除人員解散要求している、と報告した艦隊は、ドイツ西部戦線終戦まで行動せずドイツ軍監視下に置かれ終戦後に完全な形でウクライナ引き渡されるという。 一方ドイツ軍最後通牒突きつけたという噂が瞬く間艦隊中に広がった艦船ウクライナ国旗赤旗下ろして中立の」聖アンドレイ旗を掲げるべしという指示飛び22時までには出港準備整えられた。23時にはドイツ軍砲撃開始され艦隊沖合い停泊地向けて出港しだした。しかし、湾に入った巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリムならびに防護巡洋艦ハミディイェからなるドイツ・オスマン帝国艦隊からの砲撃によって多く艦船出港できず、ただ艦隊水雷艇「デールスキイ」と戦列艦ヴォーリャならびに「スヴォボードナヤ・ロシア」だけが出港成功した。残る艦船は港へ引き返し指揮官命令によって破壊された。出港した艦は、アンドレイ旗の下、翌5月1日目的地であるノヴォロシースク到着したノヴォロシースク渡ったサーブリンは、クバーニ地方にて艦隊司令官の任に就いていた。しかし、その後クバーニではクバーニ・コサックドイツ軍合同した全面的なボリシェヴィキ蜂起発生した。それに関連し、サーブリンは6月9日から6月13日にかけて艦隊沈めるべしというレーニン指示書受け取ったが、彼は艦隊を救うためモスクワへ出向いた。ソヴィエト政府は、サーブリンを逮捕監禁した。しかし、水兵らの助けによってサーブリンはロシア脱出しイギリスへ逃れた。そして、そこからクリミア戻ったが、それには大きな困難が伴ったというのもロシア臨時最高統治者となったコルチャークが、サーブリンのロシアへの帰国と、とりわけ黒海艦隊への復帰させないよう手配したからであったドイツ占領下クリミア戻ったサーブリンは、ウクライナ国海軍司令部置かれていたセヴァストーポリにてウクライナ国ヘーチマンパウロー・スコロパードシクィイの下で軍務就いた1918年8月にはセヴァストーポリ基地長官黒海水域港湾長官就任した同時にアントーン・デニーキン将軍司令部海軍局勤務した

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ドイツとウクライナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 01:14 UTC 版)

トリー・スヴャチーチェリャ (戦艦)」の記事における「ドイツとウクライナ」の解説

赤軍支配束の間1918年1月27日にはブレスト=リトフスク単独講和により中央同盟国同盟したウクライナ軍反攻出で赤軍圧倒した赤軍撤退準備をする必要に迫られ3月にはセヴァストーポリにてトリー・スヴャチーチェリャを含む保有艦船保管状態に入れた3月22日にはモスクワ政府より艦船ノヴォロシースクへの撤収命令出されたが、主力艦船は1 隻も出港しなかった。3月30日には、ドイツモスクワ政府とのあいだでセヴァストーポリを含むクリミア半島ウクライナ含まれないとする取り決めが行われた。この結果翌月ドイツ軍クリミア入った際に、戦闘態勢にあったクリミア黒海艦隊が、ブレスト=リトフスク条約の「ロシア・ソヴィエト共和国ロシアの港にある軍艦武装解除すべし」という条項抵触するという主張の根拠生じた1918年4月には、クリミア作戦によってクリミア半島奪回佳境入った4月15日ドイツロシア側に黒海艦隊条約違反について通告した同日、トリー・スヴャチーチェリャはほかの旧艦隊装甲艦とともにウクライナ軍指揮下に入った4月20日には、ウクライナ人民共和国首相B・O・ホルボーヴィチは次のような電報キエフドイツ大使打った。「全黒海艦隊ウクライナ人民共和国所有である。……若干単位部隊現時点で我々が勇敢なる貴軍の兵士とともに戦っている悪党一味の手にある。」 4月22日にはシンフェローポリがドイツ・ウクライナ同盟軍奪還され、残すはセヴァストーポリばかりとなった迫り来るドイツ帝国軍による攻撃避けるため、黒海艦隊司令官M・P・サーブリンは全艦船港湾および要塞ウクライナ国旗掲揚すべしとする指令発した一方ボリシェヴィキ黒海艦隊ノヴォロシースクへの撤収命じたその後黒海艦隊赤軍部隊は各戦線壊滅した4月25日には、ボリシェヴィキは「革命の旗を降ろしてならない」とする声明発表した4月29日には黒海艦隊艦船大半ウクライナ人民共和国の旗を掲げた。この時点でトリー・スヴャチーチェリャはロスチスラフシノープとともにウクライナ黒海艦隊第3装甲艦戦隊構成していた。 ところが、同日キエフではヘーチマンによる政変起こりウクライナ人民共和国倒れてウクライナ国成立していた。即日黒海艦隊ウクライナ国以外の何者にも所属しないとする声明出されたが、それに反しボリシェヴィキ煽動によって黒海艦隊一部赤軍支配下ノヴォロシースク逃亡図り艦隊亀裂生じた。さらに、ウクライナ人民共和国軍同盟してクリミア進撃していたドイツ帝国オスマン帝国の軍がセヴァストーポリ達すると、ヤウズ・スルタン・セリム防護巡洋艦ハミディイェセヴァストーポリ軍港への砲撃実施したため、黒海艦隊艦船多く港外への脱出図って出航した一部主力艦船が脱出成功してノヴォロシースク向かったものの、ほとんどの艦船巡洋戦艦と陸からの砲撃によって行く手阻まれ、港へ引き返した。それらの艦船では、乗員によって機関破壊されたり、中には自沈した艦もあった。 5月1日から2日にかけて、ドイツ帝国軍3月30日取り決め従いソヴィエト・ロシア所有物として黒海艦隊接収した。そこではまず艦船武装解除機関などの機能停止措置がとられた。ドイツ帝国軍司令艦ゲオルギー・ポベドノーセツに間借りして、そこに司令部開設したその後ウクライナ国ドイツ帝国との間でウクライナ国軍の編成黒海艦隊艦船所有権巡り意見の相違生じた代表団ベルリン派遣際し8月後半にはトリー・スヴャチーチェリャを含む8 隻の主力艦など多く黒海艦隊艦船ウクライナ国返還する要求がまとめられたが、このときはまだ返還されなかった。一方9月24日にはベルリンにてロシア・ソヴィエト共和国ドイツ帝国とのあいだで、黒海艦隊ロシア共和国所有物であることを確認する文書取り交わされた。これによれば黒海艦隊和平締結までドイツ海軍省の管理下におかれ、締結後損失分については補償とともに艦隊ロシアへ返還するということになっていた。 ところが、ドイツ軍降伏してウクライナから撤退することになると、黒海艦隊艦船ウクライナ国委譲されることとなった協定従い、トリー・スヴャチーチェリャはじめ旧艦隊装甲艦終戦となった11月11日付け正式にウクライナ国海軍移管された。しかし、この艦隊長続きしなかった。中央同盟国降伏によってウクライナ国軍事的後ろ盾を失うと、国内各地反政府武装蜂起発生した黒海からは連合国軍侵攻し敗戦国ドイツ同盟国であったウクライナへの進駐取り掛かっていた。ウクライナ国政府急遽ロシア白軍支援要請しウクライナ軍合同国家を守ることが試みられたが遅きに失し合同軍はディレクトーリヤ軍敗退した

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ドイツとウクライナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 05:59 UTC 版)

ゲオルギー・ポベドノーセツ (戦艦)」の記事における「ドイツとウクライナ」の解説

6月初めまでに、ウクライナ国航走可能な軍艦を1 隻も保有できなかった。海軍司令部は、ヘーチマンP・P・スコロパードシクィイの要求していた全艦隊返還実現することができないでいた。この要求は、完全にではないにせよ、1918年6月2日ドイツによるウクライナ国承認直後実現することになった同盟国徐々にウクライナ艦船返還し始めたが、1918年1月4日ウクライナ人民共和国法律が、多数艦船ウクライナへの返還障害となった。この法によれば沿岸防護装甲艦2 隻のみを艦隊所属とするものであったその2 隻に該当するのが、装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツとシノープであった。これらはドイツ司令部からすれば軍事的価値十分に低かったので、すぐにウクライナ返還された。 1918年1月4日には、ウクライナ海軍総会最初会合が行われた。そこでは、ウクライナの「海上沿岸防護のためには2 隻の装甲艦水雷艇小艦隊1万から1万2千の水兵で十分である。残る艦船は非稼動化しウクライナ共和国権益確保のため商用船団替えるべきである。」という結論採択した。 この立法根拠に、ドイツウクライナから黒海艦隊艦船大半取り上げ、2 隻の旧式艦、すなわち装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツとシノープだけをウクライナ引き渡した一方中央ラーダでは1月14日に「ウクライナ人民共和国海軍に関する臨時法」を採択しているが、そこでは全黒海艦隊ウクライナ人民共和国艦隊宣言していた。ドイツは、この新し法律無視した。さらに、ウクライナ国政府では1月4日1月14日艦隊に関するウクライナ人民共和国法律6月中旬再検討して廃止することになっていたが、ドイツ軍部はウクライナ国海軍力急激な増大要求をまったく考慮入れなかった。 ゲオルギー・ポベドノーセツとシノープウクライナ艦隊への引渡しにさえ、ドイツ軍部は当初反対唱えていた。そのため、当初これらの艦にはふたつの旗、すなわちウクライナドイツの旗掲げられていた。しかし、6月2日ドイツによるウクライナ国承認受けてドイツの旗はやがて降納された。ゲオルギー・ポベドノーセツには、ウクライナ国黒海艦隊司令部黒海艦隊司令官室置かれた。実際には、ドイツとウクライナの海軍司令部衝突大きくなったため、これらの艦は返還されたのであった。 ゲオルギー・ポベドノーセツに司令部開いたオストロフラードシクィイは、ウクライナ国海軍権益強く主張しドイツ軍部の要求約定への侵害として拒否ドイツ側無断グルジアからのウクライナ系住民避難計画するなどした。このため、彼と在クリミア・ドイツ軍のR・Vコーシュ司令官との仲が非常に悪化したオストロフラードシクィイヘーチマンによって6月初頭海軍少将任命されたが、ドイツ軍部との不必要な緊張懸念したヘーチマンによって6月10日付け司令官解任された。かわってゲオルギー・ポベドノーセツに入ったのは、クロチュコーウシクィイ海軍少将であった。彼は、ウクライナ国崩壊までウクライナ国海軍司令官務めた真っ先ウクライナ返還されたゲオルギー・ポベドノーセツとシノープであったが、ドイツ軍部は裏切り恐れて両艦の乗員定員まで編成させず、そのため両艦は出航することができなかった。ウクライナ国の全時期通じて、両艦の活動極めて消極的なものに終始した

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ドイツとウクライナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:11 UTC 版)

パーミャチ・メルクーリヤ (防護巡洋艦)」の記事における「ドイツとウクライナ」の解説

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ドイツとウクライナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 09:30 UTC 版)

チェルヴォナ・ウクライナ (軽巡洋艦)」の記事における「ドイツとウクライナ」の解説

しかし、政治的な対立から4月29日にはドイツ軍後ろ盾によりパウロー・スコロパードシクィイクーデター起こし中央ラーダ解散された。スコロパードシクィイは「全ウクライナヘーチマン」に就任し国号ウクライナ国改めた中央ラーダ軍事実上解散され一部白軍黒軍合流するなどした。だが、海軍艦艇多くそのままドイツ海軍ウクライナ国海軍指揮下に移った。アドミラール・ナヒーモフの艦上には、引き続きウクライナの海軍旗が翻った。 しかし、ヘーチマン政府のとった政策農家に対して厳しいもので、夏頃にはウクライナ各地反乱絶えなくなったヘーチマン政府さまざまな懐柔策を採ったが、そのひとつが海軍艦艇の名称を「ウクライナ化」することによりウクライナ民族主義者心情的なアピールを行うことであったヘーチマン政府は、特に国内建造中の新型に対してはすべてに新しい「ウクライナ的な」名称を与えた。アドミラール・ナヒーモフには、ウクライナ史最大英雄目されるザポロージャ・コサックヘーチマン国家ヘーチマンにしてウクライナ独立闘士ボフダン・フメリニツキーの名が与えられることとなり、その名をヘチマン・ボフダン・フメリニツキー(Гетьман Богдан Хмельницькийヘチマン・ボフダン・フメリニツキー)と改められた。同様に姉妹艦のアドミラール・ラーザレフにはヘーチマン・ペトロー・ドロシェーンコ、アドミラール・イストーミンにはヘーチマン・ペトロー・コナシェーヴィチ=サハイダーチュヌィイ、アドミラール・コルニーロフには詩人タラース・シェウチェーンコの名が与えられた。 しかし、11月初旬ドイツ連合国降伏すると、ウクライナ取り巻状況一転した強力にして唯一の後ろ盾失ったヘーチマン政府瓦解各地反乱勢力押さえつけることは叶わなくなったキエフ中心とする中部ウクライナでは、中央ラーダ流れを汲むドィレクトーリヤウクライナ国政権正式に移譲されウクライナ人民共和国復活宣言された。東南部にも一時ウクライナ人民共和国支配戻ったが、その後ロシア帝国同盟国であったイギリス・フランス軍隊上陸させ占領したこの際干渉国の支配対し抵抗示した軽巡洋艦ヘーチマン・ペトロー・コナシェーヴィチ=サハイダーチュヌィイはイギリス戦艦マールバラによって撃沈されている。その後干渉軍と合同した南ロシア軍ウクライナ東南部クリミア全土席巻した。しかし、その支配安定せず各地赤軍白軍権力奪い合った

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