ドイツとウクライナ
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「ミハイル・パーヴロヴィチ・サーブリン」の記事における「ドイツとウクライナ」の解説
1918年4月18日には、ペトロー・ボルボチャーン大佐に指揮されたウクライナ人民共和国軍がタヴリダ・ソビエト社会主義共和国への攻撃[クリミア作戦(ロシア語版)]を開始した。4月22日にはタヴリダ・ソビエト社会主義共和国の首都シンフェロポリがドイツ帝国軍に奪還され、残すはセヴァストーポリばかりとなった。迫り来るドイツ軍による攻撃を避けるため、黒海艦隊司令官サーブリンは「すべての船舶、クリミア半島にある港湾施設は、ウクライナ人民共和国の管轄下にあり。よって、必要箇所についてはすべて、ウクライナ国旗を掲揚すべし」とする宣言を発した。 一方、ウクライナから退却するボリシェヴィキは、艦船をノヴォロシースクへ回航すべしという要求を出した。当時、ノヴォロシースクにはボリシェヴィキが建てたクバーニ・ソヴィエト共和国が存在していた。ボリシェヴィキの要求と同時に、黒海艦隊のウクライナ人組織は司令部に対し、艦船がクリミアを去ることがないよう要望した。サーブリンは、艦隊をセヴァストーポリにとどめ、やがて来るウクライナ人民共和国政府の代表を迎えることにした。その後、黒海艦隊の赤軍部隊は各戦線で壊滅した。4月25日には、ボリシェヴィキは「革命の旗を降ろしてはならない」とする声明を発表した。 一方、ウクライナ軍と同盟してクリミアへ侵攻するドイツ帝国軍は、サーブリンを交渉相手として指名した。4月29日には、全艦隊会議が戦列艦「ヴォーリャ」艦上で開かれた。そこで各艦の代表者たちの大半は、全艦船と港湾がウクライナ国旗を掲揚すること、艦隊管理者にサーブリンを選出することを採択した。サーブリンは、艦隊が自分の命令にきちんと従うことを条件にこの申し出を承諾した。しかし、水雷戦隊は抗議の印として会議に出席せず、サーブリンに対してはノヴォロシースクへの出港の許可を要求した。サーブリンは水雷戦隊の出港を邪魔はしないが、深夜12時までに港は閉鎖されるであろうから、それまでに出港するよう助言した。 4月29日15時00分、サーブリン艦隊司令官は「ウクライナ黒海艦隊指揮に着任する」という信号を司令部艦「ゲオルギー・ポベドノーセツ」から発信した。16時00分には、サーブリン司令官は「艦隊にウクライナ国旗を掲揚せよ」とする命令を「ゲオルギー・ポベドノーセツ」のラジオステーションから発信した。そして、キエフのウクライナ中央ラーダへ「本日、セヴァストーポリ要塞およびセヴァストーポリにあった艦隊は、ウクライナ国旗を掲揚した。艦隊指揮にサーブリン提督は着手した」という電報を打った。これを受けて、黒海艦隊艦船の大半がウクライナ人民共和国の旗を掲げた。 23時30分頃、水雷戦隊はセヴァストーポリを出港した。それに対し、戦列艦「ヴォーリャ」と「スヴォボードナヤ・ロシア」が威嚇射撃を行い、水雷戦隊は魚雷攻撃と戦闘準備の脅しでこれに応じた。結局、「プロンジーテリヌイ」、「ケルチ」、「カリアークリヤ」以下14 隻の艦隊水雷艇、4 隻の輸送船、数隻の小型高速艇がノヴォロシースクへ向けて出港した。 その後、サーブリンはドイツ軍との交渉のためにドイツ軍司令部ならびに中央ラーダ軍司令部へ電報を打った。深夜12時近く、フェオドシヤからは代表団が出発した。 しかし、ここで艦隊がウクライナ側へ渡ることに関して同盟国のあいだで問題が生じた。ドイツ司令部は、ウクライナ中央ラーダはクリミアを放棄するという、ドイツおよびオーストリア=ハンガリーとのあいだに交わされた和平署名の付帯条件に立脚し、クリミアからウクライナ人民共和国軍を撤収させる決定をした。その結果、ボルボチャーン大佐麾下のクリミア集団は半島から撤退を余儀なくされた。ドイツ軍は、単独でセヴァストーポリ攻略を開始した。 同じ日、ウクライナ人民共和国の首都キエフではヘーチマンの政変が起こって中央ラーダ政府が崩壊し、ウクライナ人民共和国に変わってウクライナ国が成立した。ドイツはウクライナ国と同盟したため、ウクライナ人民共和国への所属を宣言した黒海艦隊はすぐに「敵」となることになってしまった。 翌30日になると、すでにドイツ軍の一部部隊がセヴァストーポリへ姿を見せ始めていた。一方、遅ればせながらセヴァストーポリへ到着した代表団は、ドイツ軍司令官ローベルト・コーシュ(ドイツ語版)将軍がセヴァストーポリ占領と黒海艦隊の自治権引渡しを断念することはあり得ず、艦隊の武装解除と人員解散を要求している、と報告した。艦隊は、ドイツの西部戦線終戦まで行動せずドイツ軍の監視下に置かれ、終戦後に完全な形でウクライナへ引き渡されるという。 一方、ドイツ軍が最後通牒を突きつけたという噂が瞬く間に艦隊中に広がった。艦船はウクライナ国旗や赤旗を下ろして「中立の」聖アンドレイ旗を掲げるべしという指示が飛び、22時までには出港の準備が整えられた。23時にはドイツ軍の砲撃が開始され、艦隊は沖合い停泊地に向けて出港しだした。しかし、湾に入った巡洋戦艦「ヤウズ・スルタン・セリム」ならびに防護巡洋艦「ハミディイェ」からなるドイツ・オスマン帝国艦隊からの砲撃によって多くの艦船は出港できず、ただ艦隊水雷艇「デールスキイ」と戦列艦「ヴォーリャ」ならびに「スヴォボードナヤ・ロシア」だけが出港に成功した。残る艦船は港へ引き返し、指揮官の命令によって破壊された。出港した艦は、アンドレイ旗の下、翌5月1日に目的地であるノヴォロシースクへ到着した。 ノヴォロシースクへ渡ったサーブリンは、クバーニ地方にて艦隊司令官の任に就いていた。しかし、その後、クバーニではクバーニ・コサックとドイツ軍が合同した全面的な反ボリシェヴィキ蜂起が発生した。それに関連し、サーブリンは6月9日から6月13日にかけて艦隊を沈めるべしというレーニンの指示書を受け取ったが、彼は艦隊を救うためモスクワへ出向いた。ソヴィエト政府は、サーブリンを逮捕監禁した。しかし、水兵らの助けによってサーブリンはロシアを脱出し、イギリスへ逃れた。そして、そこからクリミアへ戻ったが、それには大きな困難が伴った。というのも、ロシアの臨時最高統治者となったコルチャークが、サーブリンのロシアへの帰国と、とりわけ黒海艦隊への復帰をさせないよう手配したからであった。 ドイツ占領下のクリミアへ戻ったサーブリンは、ウクライナ国海軍の司令部の置かれていたセヴァストーポリにてウクライナ国ヘーチマン、パウロー・スコロパードシクィイの下で軍務に就いた。1918年8月にはセヴァストーポリ基地の長官と黒海水域港湾の長官に就任した。同時に、アントーン・デニーキン将軍の司令部海軍局に勤務した。
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ドイツとウクライナ
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「トリー・スヴャチーチェリャ (戦艦)」の記事における「ドイツとウクライナ」の解説
赤軍の支配も束の間、1918年1月27日にはブレスト=リトフスク単独講和により中央同盟国と同盟したウクライナ軍が反攻に出で、赤軍を圧倒した。赤軍は撤退の準備をする必要に迫られ、3月にはセヴァストーポリにてトリー・スヴャチーチェリャを含む保有艦船を保管状態に入れた。3月22日にはモスクワ政府より艦船のノヴォロシースクへの撤収命令が出されたが、主力艦船は1 隻も出港しなかった。3月30日には、ドイツとモスクワ政府とのあいだでセヴァストーポリを含むクリミア半島がウクライナに含まれないとする取り決めが行われた。この結果、翌月ドイツ軍がクリミアへ入った際に、戦闘態勢にあったクリミアの黒海艦隊が、ブレスト=リトフスク条約の「ロシア・ソヴィエト共和国はロシアの港にある軍艦を武装解除すべし」という条項に抵触するという主張の根拠が生じた。 1918年4月には、クリミア作戦によってクリミア半島の奪回が佳境に入った。4月15日、ドイツはロシア側に黒海艦隊の条約違反について通告した。同日、トリー・スヴャチーチェリャはほかの旧艦隊装甲艦とともにウクライナ軍の指揮下に入った。4月20日には、ウクライナ人民共和国首相B・O・ホルボーヴィチは次のような電報をキエフのドイツ大使に打った。「全黒海艦隊はウクライナ人民共和国の所有である。……若干の単位部隊は現時点で我々が勇敢なる貴軍の兵士とともに戦っている悪党一味の手にある。」 4月22日にはシンフェローポリがドイツ・ウクライナ同盟軍に奪還され、残すはセヴァストーポリばかりとなった。迫り来るドイツ帝国軍による攻撃を避けるため、黒海艦隊司令官M・P・サーブリンは全艦船と港湾および要塞にウクライナ国旗を掲揚すべしとする指令を発した。一方、ボリシェヴィキは黒海艦隊にノヴォロシースクへの撤収を命じた。その後、黒海艦隊の赤軍部隊は各戦線で壊滅した。4月25日には、ボリシェヴィキは「革命の旗を降ろしてはならない」とする声明を発表した。 4月29日には黒海艦隊艦船の大半がウクライナ人民共和国の旗を掲げた。この時点でトリー・スヴャチーチェリャはロスチスラフ、シノープとともにウクライナの黒海艦隊第3装甲艦戦隊を構成していた。 ところが、同日、キエフではヘーチマンによる政変が起こり、ウクライナ人民共和国が倒れてウクライナ国が成立していた。即日、黒海艦隊はウクライナ国以外の何者にも所属しないとする声明が出されたが、それに反し、ボリシェヴィキの煽動によって黒海艦隊の一部は赤軍支配下のノヴォロシースクへ逃亡を図り、艦隊に亀裂が生じた。さらに、ウクライナ人民共和国軍と同盟してクリミアへ進撃していたドイツ帝国とオスマン帝国の軍がセヴァストーポリへ達すると、ヤウズ・スルタン・セリムと防護巡洋艦ハミディイェがセヴァストーポリ軍港への砲撃を実施したため、黒海艦隊艦船の多くは港外への脱出を図って出航した。一部の主力艦船が脱出に成功してノヴォロシースクへ向かったものの、ほとんどの艦船は巡洋戦艦と陸からの砲撃によって行く手を阻まれ、港へ引き返した。それらの艦船では、乗員によって機関が破壊されたり、中には自沈した艦もあった。 5月1日から2日にかけて、ドイツ帝国軍は3月30日の取り決めに従い、ソヴィエト・ロシアの所有物として黒海艦隊を接収した。そこではまず艦船の武装解除と機関などの機能停止措置がとられた。ドイツ帝国軍は司令艦ゲオルギー・ポベドノーセツに間借りして、そこに司令部を開設した。その後、ウクライナ国とドイツ帝国との間でウクライナ国軍の編成と黒海艦隊艦船の所有権を巡り意見の相違が生じた。代表団のベルリン派遣に際し、8月後半にはトリー・スヴャチーチェリャを含む8 隻の主力艦など多くの黒海艦隊艦船をウクライナ国に返還する要求がまとめられたが、このときはまだ返還されなかった。一方、9月24日にはベルリンにてロシア・ソヴィエト共和国とドイツ帝国とのあいだで、黒海艦隊がロシア共和国の所有物であることを確認する文書が取り交わされた。これによれば、黒海艦隊は和平締結までドイツ海軍省の管理下におかれ、締結後、損失分については補償とともに艦隊をロシアへ返還する、ということになっていた。 ところが、ドイツ軍が降伏してウクライナから撤退することになると、黒海艦隊艦船はウクライナ国へ委譲されることとなった。協定に従い、トリー・スヴャチーチェリャはじめ旧艦隊装甲艦は終戦となった11月11日付けで正式にウクライナ国海軍へ移管された。しかし、この艦隊は長続きしなかった。中央同盟国の降伏によってウクライナ国は軍事的後ろ盾を失うと、国内各地で反政府武装蜂起が発生した。黒海からは連合国軍が侵攻し、敗戦国ドイツの同盟国であったウクライナへの進駐に取り掛かっていた。ウクライナ国政府は急遽ロシアの白軍に支援を要請しウクライナ軍と合同で国家を守ることが試みられたが遅きに失し、合同軍はディレクトーリヤ軍に敗退した。
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ドイツとウクライナ
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「ゲオルギー・ポベドノーセツ (戦艦)」の記事における「ドイツとウクライナ」の解説
6月初めまでに、ウクライナ国は航走可能な軍艦を1 隻も保有できなかった。海軍司令部は、ヘーチマン・P・P・スコロパードシクィイの要求していた全艦隊の返還を実現することができないでいた。この要求は、完全にではないにせよ、1918年6月2日のドイツによるウクライナ国の承認の直後に実現することになった。 同盟国は徐々にウクライナへ艦船を返還し始めたが、1918年1月4日のウクライナ人民共和国の法律が、多数の艦船のウクライナへの返還の障害となった。この法によれば、沿岸防護装甲艦2 隻のみを艦隊所属とするものであった。その2 隻に該当するのが、装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツとシノープであった。これらはドイツ司令部からすれば軍事的価値が十分に低かったので、すぐにウクライナへ返還された。 1918年1月4日には、ウクライナ海軍総会の最初の会合が行われた。そこでは、ウクライナの「海上の沿岸防護のためには2 隻の装甲艦と水雷艇小艦隊、1万から1万2千の水兵で十分である。残る艦船は非稼動化し、ウクライナ共和国の権益確保のため商用船団に替えるべきである。」という結論を採択した。 この立法を根拠に、ドイツはウクライナから黒海艦隊艦船の大半を取り上げ、2 隻の旧式艦、すなわち装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツとシノープだけをウクライナへ引き渡した。 一方、中央ラーダでは1月14日に「ウクライナ人民共和国海軍に関する臨時法」を採択しているが、そこでは全黒海艦隊をウクライナ人民共和国艦隊と宣言していた。ドイツは、この新しい法律は無視した。さらに、ウクライナ国政府では1月4日と1月14日の艦隊に関するウクライナ人民共和国の法律を6月中旬に再検討して廃止することになっていたが、ドイツ軍部はウクライナ国の海軍力の急激な増大の要求をまったく考慮に入れなかった。 ゲオルギー・ポベドノーセツとシノープのウクライナ艦隊への引渡しにさえ、ドイツ軍部は当初は反対を唱えていた。そのため、当初これらの艦にはふたつの旗、すなわちウクライナとドイツの旗が掲げられていた。しかし、6月2日のドイツによるウクライナ国承認を受けてドイツの旗はやがて降納された。ゲオルギー・ポベドノーセツには、ウクライナ国黒海艦隊の司令部と黒海艦隊司令官室が置かれた。実際には、ドイツとウクライナの海軍司令部の衝突が大きくなったため、これらの艦は返還されたのであった。 ゲオルギー・ポベドノーセツに司令部を開いたオストロフラードシクィイは、ウクライナ国海軍の権益を強く主張し、ドイツ軍部の要求を約定への侵害として拒否、ドイツ側へ無断でグルジアからのウクライナ系住民の避難を計画するなどした。このため、彼と在クリミア・ドイツ軍のR・V・コーシュ司令官との仲が非常に悪化した。オストロフラードシクィイはヘーチマンによって6月初頭に海軍少将に任命されたが、ドイツ軍部との不必要な緊張を懸念したヘーチマンによって6月10日付けで司令官を解任された。かわってゲオルギー・ポベドノーセツに入ったのは、クロチュコーウシクィイ海軍少将であった。彼は、ウクライナ国の崩壊までウクライナ国海軍の司令官を務めた。 真っ先にウクライナへ返還されたゲオルギー・ポベドノーセツとシノープであったが、ドイツ軍部は裏切りを恐れて両艦の乗員を定員まで編成させず、そのため両艦は出航することができなかった。ウクライナ国の全時期を通じて、両艦の活動は極めて消極的なものに終始した。
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ドイツとウクライナ
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「パーミャチ・メルクーリヤ (防護巡洋艦)」の記事における「ドイツとウクライナ」の解説
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 1918年8月5日撮影のセヴァストーポリの様子。中央寄り、連装砲塔を搭載した 3 本煙突の巡洋艦が「パーミャチ・メルクーリヤ」。 同じ頃のセヴァストーポリの様子。右奥が「パーミャチ・メルクーリヤ」。砲廓に装備されている砲は 130 mm 砲のようにも見えるが、断定は難しい。 同じ頃のセヴァストーポリの様子。中央奥の 3 本煙突の巡洋艦が「パーミャチ・メルクーリヤ」で、 2 番煙突に識別用の帯が巻かれている。 この騒ぎの中、「パーミャチ・メルクーリヤ」は5月1日にドイツ帝国軍に接収された。そして、ドイツ帝国海軍地中海分艦隊特殊分遣隊が駐留するための浮き兵舎として使用されることになった。 5月16日の時点で、「パーミャチ・メルクーリヤ」は「カグール」、「アルマース」とともに黒海艦隊の巡洋艦戦隊を編成していた。 在キエフ・ロシア平和代表団の海軍専門家 V・M・テレーンチエフによる海軍総司令部(ロシア語版)長官宛の手紙1918年9月8日付け第 40 号によれば、8月19日の時点で「パーミャチ・メルクーリヤ」にはウクライナの旗が掲揚されていた。 1918年9月17日には、イヴァン・マゼーパを記念した「ヘーチマン・イヴァン・マゼーパ」(ウクライナ語: «Ге́тьман Іва́н Мазе́па»)という艦名に改称された。これには、政治的に二つの意味があった。すなわち、ひとつはウクライナ史上の人物名を艦に与えることでウクライナ民族主義的なウクライナ化推進政策のパフォーマンスとすることであった。とりわけマゼーパの名はロシアのツァーリ、ピョートル1世を裏切った人物として知られており、ツァーリの圧政に苦しむウクライナの民を救うべく決意したウクライナ・コサックの英雄として知られている。この人物の名を艦名に用いることは、反ロシア・親ウクライナ的政策の様相を呈した。その一方で、第二の観点からは、反革命的・封建主義的な意味があった。翌年に艦船を掌握したディレクトーリヤ(ウクライナ民族主義左派)は、艦船に歴代のヘーチマンの名を冠することは反社会主義的であるとして批判している。ヘーチマンはコサックの指導者であると同時にウクライナの大領主であり、反社会主義革命的な封建領主の象徴となり得るのである。
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ドイツとウクライナ
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「チェルヴォナ・ウクライナ (軽巡洋艦)」の記事における「ドイツとウクライナ」の解説
しかし、政治的な対立から4月29日にはドイツ軍の後ろ盾によりパウロー・スコロパードシクィイがクーデターを起こし、中央ラーダは解散された。スコロパードシクィイは「全ウクライナのヘーチマン」に就任し、国号をウクライナ国と改めた。中央ラーダ軍は事実上解散され、一部は白軍や黒軍と合流するなどした。だが、海軍艦艇の多くはそのままドイツ海軍・ウクライナ国海軍の指揮下に移った。アドミラール・ナヒーモフの艦上には、引き続きウクライナの海軍旗が翻った。 しかし、ヘーチマン政府のとった政策は農家に対して厳しいもので、夏頃にはウクライナ各地で反乱が絶えなくなった。ヘーチマン政府はさまざまな懐柔策を採ったが、そのひとつが海軍艦艇の名称を「ウクライナ化」することによりウクライナ民族主義者へ心情的なアピールを行うことであった。ヘーチマン政府は、特に国内で建造中の新型艦に対してはすべてに新しい「ウクライナ的な」名称を与えた。アドミラール・ナヒーモフには、ウクライナ史上最大の英雄と目されるザポロージャ・コサック、ヘーチマン国家のヘーチマンにしてウクライナ独立の闘士ボフダン・フメリニツキーの名が与えられることとなり、その名をヘチマン・ボフダン・フメリニツキー(Гетьман Богдан Хмельницькийヘチマン・ボフダン・フメリニツキー)と改められた。同様に、姉妹艦のアドミラール・ラーザレフにはヘーチマン・ペトロー・ドロシェーンコ、アドミラール・イストーミンにはヘーチマン・ペトロー・コナシェーヴィチ=サハイダーチュヌィイ、アドミラール・コルニーロフには詩人タラース・シェウチェーンコの名が与えられた。 しかし、11月初旬にドイツが連合国に降伏すると、ウクライナを取り巻く状況は一転した。強力にして唯一の後ろ盾を失ったヘーチマン政府は瓦解、各地の反乱勢力を押さえつけることは叶わなくなった。キエフを中心とする中部ウクライナでは、中央ラーダの流れを汲むドィレクトーリヤにウクライナ国の政権が正式に移譲され、ウクライナ人民共和国の復活が宣言された。東南部にも一時ウクライナ人民共和国の支配が戻ったが、その後ロシア帝国の同盟国であったイギリス・フランスが軍隊を上陸させ占領した。この際、干渉国の支配に対し抵抗を示した軽巡洋艦ヘーチマン・ペトロー・コナシェーヴィチ=サハイダーチュヌィイはイギリス戦艦マールバラによって撃沈されている。その後、干渉軍と合同した南ロシア軍がウクライナ東南部やクリミア全土を席巻した。しかし、その支配も安定せず、各地で赤軍と白軍が権力を奪い合った。
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