ドイツとの建艦競争とは? わかりやすく解説

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ドイツとの建艦競争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 01:02 UTC 版)

ハーバート・ヘンリー・アスキス」の記事における「ドイツとの建艦競争」の解説

イギリス国際的地位1870年代以降後発資本主義国発展押されて下がり続けていた。後発資本主義国中でもとりわけイギリス急追していたのがドイツ帝国だった。ドイツ資本主義急速な発展背景にして、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世1890年代後半から「世界政策Weltpolitik)」を掲げて海軍力増強して帝国主義外交乗り出し世界中でイギリス資本主義を脅かすようになった。 これに対抗したイギリス海軍増強統一党政権時代から進められており、1905年12月成立した自由党政権キャンベル=バナマン内閣もはじめこの海軍増強路線継承しようとしたが、社会保障財源確保のため、統一党政権時代立てられ海軍増強計画縮小し海軍小増強(大型軍艦3艦建艦)を目指した。 しかし1908年2月ドイツ帝国議会可決させた海軍修正法により、ドイツ海軍毎年弩級戦艦を3艦、巡洋艦を1艦ずつ建艦していき、1917年までに弩級戦艦大型巡洋艦を計58保有することを目標とした。これを受けてイギリスでも野党統一党イギリス海軍軍部中心として海軍増強叫ばれるようになったこうした中の1908年4月発足したアスキス内閣は、組閣直ち自由帝国主義派と急進派閣僚意見対立起こった海軍大臣英語版レジナルド・マッケナ外務大臣グレイ自由帝国主義閣僚は最低でも弩級戦艦4艦、情勢次第では最大6艦の建艦主張した対して大蔵大臣ロイド・ジョージ商務庁長官チャーチル急進派閣僚ドイツ脅威否定し海軍増強より老齢年金など急進派政策財源確保優先させるべきと主張した。しかしグレイ外相海軍増強受け入れられないなら辞職する脅迫したことで、最終的に急進派閣僚折れることになり、ロイド・ジョージチャーチル1909年から1910年の間に4艦の弩級戦艦建艦することを認め対立一時収束した。 しかし1909年1月から2月閣議マッケナ海軍大臣自由帝国主義閣僚が6艦の建艦要求し、4艦の建艦固執するロイド・ジョージチャーチル急進派閣僚と再び対立深めたアスキス自由帝国主義派を支持しており、この頃妻に「ロイド・ジョージウィンストン共謀して自由党新聞味方に付けている。陰険に辞職ちらつかせて私を脅迫している。私は彼らをただちに放逐したいと思う時がある」と漏らしている。 結局アスキス1909年2月24日閣議自由帝国主義派が主張する6艦案と急進派の4艦案の折衷案として、まず1909年財政年度に4艦、情勢次第1910年にはさらに4艦の弩級戦艦建艦するという計画示した。これにより自由帝国主義派と急進派両方一定の満足を与えて閣内対立ひとまず収束させることができた。 しかし野党統一党はまった不十分な建艦計画であると批判していた。統一党党首バルフォアは「もっと急速に建艦しないと弩級戦艦保有数は1912年にはドイツの方が多くなるであろう」と主張した1909年3月クロイドン選挙区英語版)の補欠選挙では統一党候補が「We want eight and we won't wait(我々は8艦を求める。我々には待っている余裕はない)」というダジャレスローガン掲げて選挙戦戦い自由党候補大差をつけて勝利した。これにより海軍増強機運が更に高まったアスキスはこの統一党急速な海軍増強路線にも警戒感持っており、海軍拡張主義これ以上妥協はしないという姿勢露骨に示すことで統一党内閣不信任案提出誘導し、これを庶民院否決させることで海軍増強主義一定の歯止めをかけた。

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ドイツとの建艦競争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)

ウィンストン・チャーチル」の記事における「ドイツとの建艦競争」の解説

イギリス国際的地位1870年代以降後発資本主義国発展押され低下一途たどっていた。後発資本主義国中でもとりわけドイツイギリス急追していた。ドイツ資本主義急速な発展背景にして、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世1890年代後半から「世界政策Weltpolitik)」を掲げて海軍力増強して帝国主義外交乗り出し世界中でイギリス資本主義を脅かすようになった。これに対抗したイギリス海軍増強保守党政権時代開始されたが、キャンベル=バナマン内閣保守党海軍増強計画若干縮小し海軍小増強(大型軍艦3艦建艦)を目指した。1908年2月ドイツ帝国議会海軍修正法が可決しドイツ海軍毎年弩級戦艦を3艦、巡洋艦を1艦ずつ建艦していき、1917年までに弩級戦艦大型巡洋艦合わせて58艦の保有目指した。これを受けてイギリスでも野党保守党イギリス海軍軍部中心に海軍増強叫ばれるようになったアスキス内閣発足後自由帝国主義派と急進派閣僚の間で海軍増強論争起こった海軍大臣レジナルド・マッケナ外務大臣エドワード・グレイ自由帝国主義閣僚は最低でも弩級戦艦4艦、情勢次第では最大6艦の建艦主張した。これに対して大蔵大臣ロイド・ジョージ通商大臣チャーチル急進派閣僚海軍増強より社会保障費財源確保優先させるべきと主張したチャーチル1908年8月15日スウォンジでの演説で「ドイツには戦う理由も、戦って得る利益も、戦う場所もない」としてドイツ脅威論を一蹴している。ウィンザー城管理長官代理であるレジナルド・ベレット (第2代イーシャ子爵)は「チャーチル信念主義海軍増強反対しているわけではなく自由党急進派自分指導しようという野心から反対している」と分析した。 しかしグレイ外相が「海軍増強受け入れられないなら辞職する」と脅迫し、また1908年に訪独したロイド・ジョージドイツ脅威論をある程度認めようになったことでロイド・ジョージチャーチル1909年1910年2年間に4艦の弩級戦艦建艦認めるに至り、これにより閣内対立一時収束した。 しかし1909年1月から2月閣議マッケナ海軍大臣自由帝国主義閣僚が6艦の建艦要求し、4艦の建艦止めようとするロイド・ジョージチャーチル急進派閣僚と再び対立深め海軍増強論争再燃したロイド・ジョージチャーチルは「もし4隻以上の弩級戦艦建艦するつもりなら、辞職する」とアスキス首相脅迫した結局アスキス首相1909年2月24日閣議折衷案をとり、1909年財政年度にまず4艦、情勢次第1910年にはさらに4艦の弩級戦艦建艦するとした。これにより自由帝国主義派と急進派双方一定の満足を与え、この時も閣内対立収束させることができた。

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ドイツとの建艦競争

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ウィンストン・チャーチル」の記事における「ドイツとの建艦競争」の解説

海軍大臣となったチャーチルは、バッテンベルク家ルイス公子第一海軍卿任じつつ、70歳過ぎですでに引退していたジョン・アーバスノット・フィッシャー提督顧問として重用したフィッシャー提案受け入れながら、海軍軍備増強進めた13インチ砲にかわって15インチ砲を導入しクイーン・エリザベス級戦艦搭載した。またフィッシャー装甲よりスピード重視軍艦製造目指したため、燃料石炭から重油転換する必要性迫られフィッシャー委員長務め王立委員会のもとにアングロ=ペルシャン・オイル・カンパニー(英語版)を創設し19世紀以来イギリス握っている中東石油利権をより強力に掌握した。また海軍航空隊創設育成にもあたったためチャーチルを「イギリス空軍の父」とする主張もある。チャーチル本人によればフライトflight)」や「シープレイン(sea plain)」などの航空用語作ったのは彼なのだという。 一方首相アスキス建艦競争緩和目指し1912年1月戦争大臣ホールデン子爵使者としてドイツ派遣し、「ドイツイギリス海軍優位認めるべき。ドイツこれ以上海軍増強行わないなら、代わりにイギリスドイツ植民地拡大するのを邪魔しない」という交渉ヴィルヘルム2世もちかけたホールデン使節英語版))。このホールデン子爵訪独中の1912年2月9日チャーチルが「イギリスにとって海軍必需品、しかしドイツにとって海軍贅沢品である。」という演説行ったチャーチルとしてはホールデン子爵サポートするつもりでこの演説行ったのだが、かえってヴィルヘルム2世心証悪くし、ホールデン子爵提案ドイツ海軍力を一方的に封じ込めようというイギリス陰謀であるとして拒絶された。 チャーチルは、1912年春にポーランド沖で150隻の軍艦王室ヨット動員した観艦式開催しドイツ威圧した。さらに王室船「エンチャントレス」号(HMS Enchantress)で地中海視察旅行行ったチャーチル第一次世界大戦前海相在任期間のうち実に4分の1をこの船の上過ごしている。古代ギリシャ劇場跡を訪問した際にチャーチルシチリア遠征思い起こしドイツ軍アテナイ軍と同じ運命をたどるだろうと思いむようになったという。 海軍予算の面では1912年巨額要求したが、1913年控えめだった。1913年3月26日には、英独両国建艦競争1年間休戦するという「海軍休日案」をドイツ提案しているが、相手にされなかった。そのため1914年1月には海軍予算大幅増額を要求し軍事費拡大慎重な急進派閣僚ロイド・ジョージ対立深めた結局この論争アスキス首相決定によりチャーチル言い分認められた。3月庶民院チャーチルがこの海軍予算案発表した際には、与党自由党からではなく海軍増強主張していた野党保守党から喝采されるという珍現象発生した

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