ドイツとの建艦競争
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「ハーバート・ヘンリー・アスキス」の記事における「ドイツとの建艦競争」の解説
イギリスの国際的地位は1870年代以降、後発資本主義国の発展に押されて下がり続けていた。後発資本主義国の中でもとりわけイギリスに急追していたのがドイツ帝国だった。ドイツ資本主義の急速な発展を背景にして、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は1890年代後半から「世界政策(Weltpolitik)」を掲げて海軍力を増強して帝国主義外交に乗り出し、世界中でイギリス資本主義を脅かすようになった。 これに対抗したイギリスの海軍増強は統一党政権時代から進められており、1905年12月に成立した自由党政権キャンベル=バナマン内閣もはじめこの海軍増強路線を継承しようとしたが、社会保障の財源確保のため、統一党政権時代に立てられた海軍増強計画を縮小し、海軍の小増強(大型軍艦3艦建艦)を目指した。 しかし1908年2月にドイツ帝国議会が可決させた海軍法修正法により、ドイツ海軍は毎年弩級戦艦を3艦、巡洋艦を1艦ずつ建艦していき、1917年までに弩級戦艦と大型巡洋艦を計58艦保有することを目標とした。これを受けてイギリスでも野党統一党やイギリス海軍軍部を中心として海軍増強が叫ばれるようになった。 こうした中の1908年4月に発足したアスキス内閣は、組閣後直ちに自由帝国主義派と急進派の閣僚で意見対立が起こった。海軍大臣(英語版)レジナルド・マッケナや外務大臣グレイら自由帝国主義閣僚は最低でも弩級戦艦4艦、情勢次第では最大6艦の建艦を主張した。対して大蔵大臣ロイド・ジョージや商務庁長官チャーチルら急進派閣僚はドイツの脅威を否定し、海軍増強より老齢年金など急進派政策の財源確保を優先させるべきと主張した。しかしグレイ外相が海軍増強が受け入れられないなら辞職すると脅迫したことで、最終的には急進派閣僚が折れることになり、ロイド・ジョージもチャーチルも1909年から1910年の間に4艦の弩級戦艦を建艦することを認め、対立は一時収束した。 しかし1909年1月から2月の閣議でマッケナ海軍大臣ら自由帝国主義派閣僚が6艦の建艦を要求し、4艦の建艦に固執するロイド・ジョージやチャーチルら急進派閣僚と再び対立を深めた。アスキスは自由帝国主義派を支持しており、この頃妻に「ロイド・ジョージとウィンストンは共謀して自由党系新聞を味方に付けている。陰険にも辞職をちらつかせて私を脅迫している。私は彼らをただちに放逐したいと思う時がある」と漏らしている。 結局アスキスは1909年2月24日の閣議で自由帝国主義派が主張する6艦案と急進派の4艦案の折衷案として、まず1909年の財政年度に4艦、情勢次第で1910年にはさらに4艦の弩級戦艦を建艦するという計画を示した。これにより自由帝国主義派と急進派の両方に一定の満足を与えて閣内対立をひとまず収束させることができた。 しかし野党統一党はまったく不十分な建艦計画であると批判していた。統一党党首バルフォアは「もっと急速に建艦しないと弩級戦艦の保有数は1912年にはドイツの方が多くなるであろう」と主張した。1909年3月のクロイドン選挙区(英語版)の補欠選挙では統一党候補が「We want eight and we won't wait(我々は8艦を求める。我々には待っている余裕はない)」というダジャレのスローガンを掲げて選挙戦を戦い、自由党候補に大差をつけて勝利した。これにより海軍増強の機運が更に高まった。 アスキスはこの統一党の急速な海軍増強路線にも警戒感を持っており、海軍拡張主義にこれ以上妥協はしないという姿勢を露骨に示すことで統一党を内閣不信任案提出に誘導し、これを庶民院で否決させることで海軍増強主義に一定の歯止めをかけた。
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ドイツとの建艦競争
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「ウィンストン・チャーチル」の記事における「ドイツとの建艦競争」の解説
イギリスの国際的地位は1870年代以降、後発資本主義国の発展に押されて低下の一途をたどっていた。後発資本主義国の中でもとりわけドイツがイギリスに急追していた。ドイツ資本主義の急速な発展を背景にして、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は1890年代後半から「世界政策(Weltpolitik)」を掲げて海軍力を増強して帝国主義外交に乗り出し、世界中でイギリス資本主義を脅かすようになった。これに対抗したイギリスの海軍増強は保守党政権時代に開始されたが、キャンベル=バナマン内閣は保守党の海軍増強計画を若干縮小し、海軍の小増強(大型軍艦3艦建艦)を目指した。1908年2月にドイツ帝国議会で海軍法修正法が可決し、ドイツ海軍は毎年弩級戦艦を3艦、巡洋艦を1艦ずつ建艦していき、1917年までに弩級戦艦と大型巡洋艦合わせて58艦の保有を目指した。これを受けてイギリスでも野党保守党やイギリス海軍軍部を中心に海軍増強が叫ばれるようになった。 アスキス内閣発足後、自由帝国主義派と急進派の閣僚の間で海軍増強論争が起こった。海軍大臣レジナルド・マッケナや外務大臣エドワード・グレイら自由帝国主義閣僚は最低でも弩級戦艦4艦、情勢次第では最大6艦の建艦を主張した。これに対して大蔵大臣ロイド・ジョージや通商大臣チャーチルら急進派閣僚は海軍増強より社会保障費の財源確保を優先させるべきと主張した。チャーチルは1908年8月15日のスウォンジでの演説で「ドイツには戦う理由も、戦って得る利益も、戦う場所もない」としてドイツ脅威論を一蹴している。ウィンザー城管理長官代理であるレジナルド・ベレット (第2代イーシャ子爵)は「チャーチルは信念や主義で海軍増強に反対しているわけではなく、自由党急進派を自分が指導しようという野心から反対している」と分析した。 しかしグレイ外相が「海軍増強が受け入れられないなら辞職する」と脅迫し、また1908年に訪独したロイド・ジョージがドイツ脅威論をある程度認めるようになったことでロイド・ジョージとチャーチルは1909年と1910年の2年間に4艦の弩級戦艦の建艦を認めるに至り、これにより閣内対立は一時収束した。 しかし1909年1月から2月の閣議でマッケナ海軍大臣ら自由帝国主義派閣僚が6艦の建艦を要求し、4艦の建艦に止めようとするロイド・ジョージやチャーチルら急進派閣僚と再び対立を深め、海軍増強論争が再燃した。ロイド・ジョージとチャーチルは「もし4隻以上の弩級戦艦を建艦するつもりなら、辞職する」とアスキス首相を脅迫した。結局アスキス首相は1909年2月24日の閣議で折衷案をとり、1909年の財政年度にまず4艦、情勢次第で1910年にはさらに4艦の弩級戦艦を建艦するとした。これにより自由帝国主義派と急進派の双方に一定の満足を与え、この時も閣内対立を収束させることができた。
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ドイツとの建艦競争
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「ウィンストン・チャーチル」の記事における「ドイツとの建艦競争」の解説
海軍大臣となったチャーチルは、バッテンベルク家のルイス公子を第一海軍卿に任じつつ、70歳過ぎですでに引退していたジョン・アーバスノット・フィッシャー元提督を顧問として重用した、フィッシャーの提案を受け入れながら、海軍軍備増強を進めた。 13半インチ砲にかわって15インチ砲を導入し、クイーン・エリザベス級戦艦に搭載した。またフィッシャーは装甲よりスピード重視の軍艦製造を目指したため、燃料を石炭から重油に転換する必要性に迫られ、フィッシャーが委員長を務める王立委員会のもとにアングロ=ペルシャン・オイル・カンパニー(英語版)を創設し、19世紀以来イギリスが握っている中東の石油利権をより強力に掌握した。また海軍航空隊の創設と育成にもあたったためチャーチルを「イギリス空軍の父」とする主張もある。チャーチル本人によれば「フライト(flight)」や「シープレイン(sea plain)」などの航空用語を作ったのは彼なのだという。 一方首相アスキスは建艦競争の緩和を目指し、1912年1月に戦争大臣ホールデン子爵を使者としてドイツに派遣し、「ドイツはイギリス海軍の優位を認めるべき。ドイツがこれ以上海軍増強を行わないなら、代わりにイギリスはドイツが植民地拡大するのを邪魔しない」という交渉をヴィルヘルム2世にもちかけた(ホールデン使節(英語版))。このホールデン子爵訪独中の1912年2月9日、チャーチルが「イギリスにとって海軍は必需品、しかしドイツにとって海軍は贅沢品である。」という演説を行った。チャーチルとしてはホールデン子爵をサポートするつもりでこの演説を行ったのだが、かえってヴィルヘルム2世の心証を悪くし、ホールデン子爵の提案はドイツ海軍力を一方的に封じ込めようというイギリスの陰謀であるとして拒絶された。 チャーチルは、1912年春にポーランド沖で150隻の軍艦と王室ヨットを動員した観艦式を開催し、ドイツを威圧した。さらに王室船「エンチャントレス」号(HMS Enchantress)で地中海の視察旅行を行った。チャーチルは第一次世界大戦前の海相在任期間のうち実に4分の1をこの船の上で過ごしている。古代ギリシャ劇場跡を訪問した際にチャーチルはシチリア遠征を思い起こし、ドイツ軍はアテナイ軍と同じ運命をたどるだろうと思い込むようになったという。 海軍予算の面では1912年は巨額を要求したが、1913年は控えめだった。1913年3月26日には、英独両国の建艦競争を1年間休戦するという「海軍休日案」をドイツに提案しているが、相手にされなかった。そのため1914年1月には海軍予算の大幅増額を要求し、軍事費拡大に慎重な急進派閣僚ロイド・ジョージと対立を深めた。結局この論争はアスキス首相の決定によりチャーチルの言い分が認められた。3月の庶民院でチャーチルがこの海軍予算案を発表した際には、与党自由党からではなく、海軍増強を主張していた野党保守党から喝采されるという珍現象が発生した。
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