ドイツとの友好目指して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)
「エドワード7世 (イギリス王)」の記事における「ドイツとの友好目指して」の解説
1881年2月には甥にあたるドイツのヴィルヘルム皇子(後のヴィルヘルム2世、家族内ではウィリーの愛称で呼ばれた)の結婚式に出席した。妻アリックスは相変わらずプロイセン嫌いでこの訪問を拒否したため、バーティ一人での出席となった。バーティはこれを機にドイツ首相ビスマルクとも初会見したが、政治的にきわどい話は徹底的に回避し、摩擦を起こすのを避けたという。 ついで1885年3月にはドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の88歳の誕生日祝賀式典に出席した。植民地政策をめぐってイギリスが孤立化する恐れがあった時期だったので時の第2次グラッドストン内閣はドイツとの友好政策を重視しており、外相グランヴィル伯爵もこの皇太子訪独を大いに歓迎した。 1888年3月にヴィルヘルム1世が崩御した際にもバーティは訪独してその葬儀に出席した。第2代皇帝に即位したのはバーティの義兄フリードリヒ3世だったが、彼は喉頭癌を患っていたため、在位99日で崩御した。バーティは再び訪独して葬儀に出席している。 第3代皇帝に即位したのはバーティの甥にあたるウィリーことヴィルヘルム2世だった。彼は1888年10月にオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を訪問したが、この際バーティもウィーンで開催されていた産業博覧会見学のためにオーストリアに滞在中だった。バーティはオーストリア皇帝とウィリーと自分の三人での会見を希望し、その旨をウィリーに打診したが、ウィリーはオーストリア訪問中にそれ以外の国の皇太子と会見するわけにはいかないと拒否した。またウィリーはその旨の返書を自身ではなく駐ウィーン大使に書かせた。これにヴィクトリア女王が激怒し、結局ウィリーは女王の要求でバーティに謝罪文を書かされた。後の英独関係の緊張を予期させる事件だった。
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