「人民予算」をめぐって
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「アーサー・バルフォア」の記事における「「人民予算」をめぐって」の解説
大蔵大臣ロイド・ジョージは保守党の支持基盤である地主・土地貴族に打撃を与えるべく、「人民予算」(People's Budget)と呼ばれる予算案の作成を開始した。 この「人民予算」に含まれる土地課税は「土地の国有化を企むもの」として地主・土地貴族が強く反発した。彼らの声を代弁するバルフォアら保守党政治家もこの予算案に強く反対し、「赤旗の予算(The Red Flag Budget)」と批判した。自由党内のホイッグ派(土地貴族が多い)も保守党と声を合わせるようになったため、結局土地課税についてはロイド・ジョージ自身が骨抜き修正している。それにも関わらず、「人民予算」は1909年11月に庶民院の第三読会を通過した後、貴族院から激しい反発にあった。彼らはなおも土地の国有化につながる法案と信じていた。バルフォアも11月28日に「貴族院は法案を否決すべきである」と演説した。 11月30日に貴族院は賛成75、反対350という圧倒的大差で「人民予算」を否決した。貴族院が金銭法案を否決するのは17世紀以来のことだった。これを受けてアスキス首相は庶民院を解散し、総選挙に打って出た。1910年1月の解散総選挙(英語版)でバルフォアは「貴族院の権限縮小反対」「関税改革」「海軍拡張」の3つを保守党の公約に掲げた。このうち関税改革は「関税改革が失業を減少させる」というスローガンとセットにして行った。これは労働者層の支持を取り戻すのにかなり役立ったと見られている。選挙の結果は自由党275議席、保守党273議席、アイルランド国民党(英語版)82議席、労働党40議席となった。前回比で自由党は104議席も減らし、保守党はかなり失地回復を果たした。 だがキャスティング・ボートを握ったアイルランド国民党が「人民予算」を支持したため、自由党政権は引き続き「人民予算」の可決成立を目指した。バルフォアの「人民予算」に対する態度が依然として強硬と見たアスキス首相は1910年2月に貴族院の権限を縮小する貴族院改革法案(議会法)を一緒に提出した。これを警戒したバルフォアは1910年4月に「人民予算」を採決なしで貴族院を通過させる妥協姿勢をとった。
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「人民予算」をめぐって
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「ウィンストン・チャーチル」の記事における「「人民予算」をめぐって」の解説
大蔵大臣ロイド・ジョージは1909年4月に「人民予算(英語版)」を議会に提出した。この予算はドイツとの建艦競争や社会保障費によって財政支出が膨大になったため、財政の均衡を図るために提出されたものだった。「人民予算」の増税案は所得税率の引き上げ、相続税の引き上げと累進課税性の強化、そして土地課税制度導入など富裕層から税金を取り立てるものだった。しかし野党保守党は「富裕層から取るのではなく、関税改革によって歳入増加を図るべき」と主張して人民予算に反対した。 この論争でイギリス社会は二分された。チャーチルは「人民予算」を支持する者たちを糾合して「予算賛成同盟(Budget League)」を結成した。一方保守党のウォルター・ロングらはこれに対抗して「予算反対同盟」を結成した。世論の支持はチャーチルの「予算賛成同盟」にあった。ただロイド=ジョージによればチャーチルは従兄弟のマールバラ公から圧力を受けており、「人民予算」にいまいち熱心ではなかったという。 「人民予算」は1909年11月4日に庶民院を通過したが、保守党・地主貴族が牛耳る貴族院から「土地の国有化を狙う社会主義予算」として徹底批判を受け、11月30日に圧倒的大差で否決された。これを受けてアスキス首相は議会を解散した。 1910年1月に行われた解散総選挙でチャーチルは再びスコットランドのダンディー選挙区から出馬したが、スコットランドでは地主貴族や保守党に対する反発が強かったので当選は安泰だった。そのため選挙戦中、チャーチルは自分の選挙区よりも他の選挙区の自由党候補の応援演説に駆け回った。全国的には自由党は苦戦を強いられ、選挙の結果は、自由党275議席、保守党273議席、アイルランド国民党82議席、労働党40議席となった。前回比で自由党は104議席も失った。人民予算については自由党を支持するが、海軍増強問題では大増強を訴える保守党を支持するという者が多かったのが原因だった。この選挙で自由党は過半数を失い、以降アイルランド国民党と労働党の閣外協力を得て政権を維持することとなった。この両党の支持を得て「人民予算」は可決成立した。
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